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三洋化成ニュース No.497
2016.08.26
写真の仕事を始め、野生動物への関心が高まるにつれて、いつの日かエゾヒグマを見てみたいと強く思うようになった。近寄り難いものへの憧れにも似た感情だ。その思いがようやくかなったのが2003年の秋。フリーランスの写真家になって3年目を迎えた時だ。場所は北海道の知床半島。北米にすむクマたちの撮影には取り組んでいたが、日本にすむ野生のヒグマはそれまで見たことがなかった。ヒグマが数多く生息する北海道とはいえ、どこに行けば出会えるのかよくわからず、雲を掴むような心境でもあった。そこで、ヒグマの生息地として最も有名な知床を訪れてみることにした。知床半島の奥地は原始的な自然が色濃く残り、ここ日本にもこのような場所があったのかと驚き、そして喜んだ。
海外の桁外れに広大な自然とは、その規模で言えば比ぶべくもないが、こと野生的な密度という点では、それらと比較しても決して見劣りすることがないどころか、上回るといっても過言ではないだろう。ヒグマやオオワシ、シマフクロウなどを生態系の頂点とする、多種多様な生き物たちが、幾筋もの河川を遡上する大量のサケやマスとリンクし、混然一体となって野生の世界を形作っている。2005年に世界自然遺産となり、奥地への出入りが以前に比べて非常に厳しくなったとはいえ、人の暮らしと隔絶されているわけではない。半島にはサケやマス、昆布漁師の番屋が点在しており、人とヒグマが顔を合わせることも昔から日常的である。
しかし歳をとった大きな雄グマなどは警戒心も強くなり、あまり人前には姿を現さないと、番屋の漁師が教えてくれた。日中、海岸沿いに出てくるのは子育て中の親子か若い個体がほとんどらしい。言われてみると、よく見かけるのは好奇心旺盛な若いクマが多い。巨大なヒグマは日没後、人目を避けてサケやマスを獲りに海岸へ来るのだろう。たとえ人との争いが少ないにせよ、歳を重ねるごとに人への警戒心を強めるのはごく自然な成り行きだと思う。エゾヒグマは北米やアジアにすむヒグマの亜種として認識されている。大きく分けると同じ種類なのだが、北米のヒグマと比べると、体も小ぶりで、毛の色なども月輪があったり、金色が差していたりとだいぶ印象が異なる。1頭から多い時は3頭もの子グマを連れた親子も海岸によく現れ、母グマがサケやマスを獲って、子グマたちに与えている。河口のよどみにいる大量の魚たちは、はたから見ていると簡単に獲れそうな気もするが、実際にはそう簡単ではないようだ。漁に慣れている大人のクマも、結構苦戦する様子が見られ、腕前の差も個体によって明らかに異なる。そんな状況であるから、子グマがいくら一生懸命魚を追いかけたところで、なかなか捕まるものではない。それでも本能によるものか、それとも楽しくて仕方がないのか、盛んに水しぶきを上げながら川の中を駆け巡っている。母グマが捕まえたマスを横取りし、その大きさに困惑しながらも、爪で引っかいたり、かみ付いたりしている。そのようにして、徐々に獲物になじんでゆくのだろう。 |
ねぐらは山の中のようだ。山の上から現れて、海岸付近にしばらく滞在した後、母グマの足元に子グマがじゃれつきながら、また山の上へと帰ってゆく。ある時、2頭の子グマを連れた母グマが、山の中腹でお乳をあげている光景に出くわした。懸命にお乳を吸う子グマたち。濃厚で脂肪分の多いクマの母乳は、子グマの成長に欠かすことのできない大切な栄養分だ。ヒグマは兄弟仲が良く、2歳を過ぎて親離れしても、しばらくは兄弟で行動を共にする。河口で漁をし、草原でじゃれ合い、時には取っ組み合いの力比べをしたりする。知床の気象は変化が激しく、尾根を境に晴れと雨が入り交じり、よく虹がかかる。一つ山の向こう側に虹がかかっているのに気付き、そっちの方へと向かってみた。すると虹の根元には若いヒグマが座っていて、僕が近づいてくるのをじっと見ていた。知床の奥地では、物語のような出来事がいつも展開している。唯一無二の世界だ。 |
ただ、世界自然遺産となった今でも、海岸に打ち寄せる漁具や漂着ゴミの膨大な量には、驚きを隠せない。ときどき清掃はするようだが、とても拾い切れる量ではない。ゴミをよく見てみると、さまざまな外国語が書かれている。潮流に乗って、それぞれの国で廃棄された物が、流れ流れて知床の海岸線にたどり着いたというわけだ。たとえ陸地でつながっていなくても、海や大気で世界はつながり、自分たちの暮らしが世界に影響を与えていることを、しっかりと認識することが大切だ。
エゾヒグマは北海道において、1800年代後半から家畜や農作物を荒らす害獣として駆除され続けてきた。時には人を襲うこともあり、年に数百頭も捕らえられてきた。生息地に暮らす人々にとってみたら、切実な問題なのは間違いない。ただ近年では、事故を未然に防ぎ共存を図る意識が高まり、実際に行動に移されている。ヒグマのような大型獣が生息する自然が我が国にあるということは、とても貴重で誇らしく、後世に存続させなければならないと、より多くの人に理解してもらうことが重要ではないだろうか。 |
1969年東京都生まれ。和光高等学校卒業。
エンジニアとしてコンピュータ関連会社に勤務した後、独学で写真を始める。1997年から動物写真家・田中光常氏の助手を務め、2000年からフリーでの活動を開始。世界を舞台に、野生動物の生きる姿をテーマに撮影に取り組み、雑誌、写真集、写真展などで作品を発表している。2008年日本写真協会賞新人賞受賞、2013年第1回日経ナショナル ジオグラフィック写真賞グランプリ受賞。公益社団法人日本写真家協会会員。主な著書に『動物写真家という仕事』など。