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三洋化成ニュース No.527
2021.07.28
清水坂といえば、東大路通から清水寺に向かって登っていく坂(二年坂・三年坂がある辺り)が思い浮かぶのではないでしょうか。しかし、近世までは今の松原通の大和大路通交差点付近を中心とする界隈が清水坂、または単に「坂」と呼ばれていました。この付近はほぼ平坦な地形ですが、なぜ「坂」だったのでしょうか。それは、この辺りが二重の意味で「境界」であったためです。
「坂」は「境」からきているのですが、この地はまず京都と奈良を結ぶ大和街道(奈良からは京街道)の出入り口(境)でした。これが一つ目の「境界」です。
奈良側の出入り口にはやはり「奈良坂」という「坂」があったのです。清水坂、奈良坂の両坂には「坂の者」と呼ばれる人たちがいて、いくつかの職能・職責を持っていましたが、その一つは死者の葬送でした。京都では、平安末期頃から貴族の間で、死を「穢れ」として忌む風習が広まっていきました。これは天皇を究極的に「清浄」な存在とし、それを最高の権威の源とする政治体制がつくられていったためです。天皇の側近くに仕える貴族もまた清浄であらねばならず、死の穢れを極力避けるようになりました。その結果として「坂の者」が専ら死穢を取り扱うことになったのです。市中での埋葬が禁じられ、周辺部にいくつかの葬場がつくられましたが、最も大きかったのは東山山麓の鳥辺野です。市中で死者が出たら、遺族らが鴨川の五条橋(今の松原橋)を渡り、「坂」の付近で遺体を坂の者に託してお別れをしました。だからこの辺りは「この世とあの世の境」でもありました。これが二つ目の「境界」です。
「六道の辻」と呼ばれるT字路は、かつての清水坂の一画で、大和大路松原交差点から少し東へ歩いた所にあります。この辻を南へ行けば六波羅蜜寺、東へ行けば六道珍皇寺があります。そして辻の南西角にあるのが子育地蔵尊で有名な西福寺で、水子供養もしています。
六波羅蜜寺の開祖・空也は、疫病が蔓延して生と死の境をさまよう人たちに茶をふるまい、念仏を勧めて救済を図りました。
六道珍皇寺には実在した貴族である小野篁に関する伝説が伝わっています。彼は、昼間は朝廷で執務し、夜は境内にある井戸を通ってあの世に赴き、亡き母に会ったり、閻魔大王が亡者を裁くのを補佐したりしていたといいます。
毎年お盆を前にした八月上旬には、六道の辻界隈は「六道まいり」といって先祖の霊を迎えるため、〝迎え鐘〞を撞く人たちでにぎわいます。その頃西福寺では「檀林皇后九相図」(複製)という絵図が開帳されます。この絵図は、嵯峨天皇の后で、仏道に仕える僧侶までが心を奪われるほどの美女だったといわれる檀林皇后が「この世の無常」を身をもって示すため、自分の死後遺体を放置させ、土に還っていく有様(九相)を絵師に描かせたものと伝えられます。
お盆の頃この界隈を歩くと、私は「この世」と「あの世」が交錯しているような感覚にとらわれます。千年以上の歴史を経て、この地は今も「坂」として健在なのです。