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三洋化成ニュース No.506
2018.02.07
南半球に位置し、独特な生き物たちが数多く生息するオーストラリア。本土は乾燥した砂漠気候であるが、南に浮かぶタスマニア島は南極海に面した湿潤な気候で、原始の姿そのままに、手付かずの自然が残されている。南半球は季節の移り変わりが日本と逆なので、僕が訪れた12月は初夏となる。
20代の初めに自然の中でのトレッキングが好きになり、その時に、いつかはタスマニア島を訪れてみたいと思っていた。あれから20年以上が経ち、ようやく踏むこととなった憧れの土地である。都市部はそれなりに栄えているものの、ほんの少し郊外に出れば、すぐに牧場や畑の広がる牧歌的な風景へと様変わりする。この島は本土に比べ、ハリモグラやカモノハシ、タスマニアデビルといった、より一層風変わりな生き物たちがすんでいる。
ウォンバットは、ヒメウォンバット、ミナミケバナウォンバット、キタケバナウォンバットの三亜種があり、タスマニア島にいるのはヒメウォンバットである。体長は種によって異なるが、70〜115センチメートル程度。体毛は粗く、黒色から褐色、灰色までと毛色もさまざまで、小さな目に比べ鼻は大きく、耳は短くて丸い。まるでぬいぐるみのようなずんぐりした体形で、愛らしいとぼけた表情が最大の持ち味だろう。カンガルーなどと同じ有袋類であり、大きく複雑に入り組んだ巣穴を地中に掘るため、短くて強力な四肢と長くて頑丈な爪を持っている独特な生き物だ。
ウォンバットのすむ山岳地帯の原野は国立公園に指定され、大きな開発もされずに現在に至っている。動物たちとの出会いを求め、朝早くから起伏の激しい原野を歩いてみる。カンガルーを小さくしたようなワラビーが、時々跳びはねながら目の前を通り過ぎていく。草原のかなたへ目を凝らすと、丸い塊がもぞもぞと動いているのを発見した。ウォンバットが草を食べているのだ。
夜行性のウォンバットは、日没後から活発に活動するのだが、昼間に歩き回る姿もよく見かける。オスとメスはほぼ同じ大きさで、視力は弱いが嗅覚と聴覚は優れている。主食となるのは栄養価が低い、硬くて繊維の多いイネ科の草なのだが、ウォンバットの歯は硬い繊維を砕くのに適している。食べる量は体の大きさの割にほかの有袋類に比べてそれほど多くないのだが、食物が消化器官の中を通過する時間がとても長く、結腸の中での微生物による繊維の発酵作用も、栄養価の低い食物で生きてゆくのを助けている。
草食で見た目も可愛らしいので、僕の方も気兼ねなく寄っていってしまうのだが、意外と、と言うか当然ではあるのだが、警戒心は強い。不用意に近付くと、はたと草を食むのをやめて顔を上げ、ドタドタと逃げていってしまう。そのスピードたるや、姿形からは想像がつかないほど速く、でこぼこの原野のせいもあり、僕が走ってもまず追い付けない。短い距離なら時速40キロで走れるほどの俊足だ。そうかと思えば、カメラを構える僕に向かって、ウォンバットの方から近付いてきて、僕に体を擦り付けながら脇を通っていったりもする。視力が弱いからだけではなく、気まぐれな性格なのかもしれない。
近付く時はやはりほかの動物たちと同じように、ゆっくりと驚かさないよう気を使わなければいけない。鼻の大きいとぼけ顔も、よくよく見てみると野生の厳しさのようなものが垣間見え、仲間同士で小競り合いをしたり、縄張りに侵入した別の個体を猛烈に追い払ったりする。人を襲うことはまずないが、それでも一生伸び続けるとがった門歯と鋭い爪を持っているので、用心が必要だ。
本土の種は出産の時期があるようだが、この島の種は特に決まっておらず、いつでも産むようだ。子どもは母親の育児嚢で育ち、6〜7カ月を過ぎると袋から出たり入ったりするようになる。母親はおなかの袋に子どもを入れて移動するのだが、お尻に後ろ向きに穴が開いているため、メスの歩く後ろ姿を見ると、お尻から子どもが顔を出していることもある。そんなところもとてもユーモラスだ。
彼らを追いかけるには身軽さが必要なので、機材はカメラボディー2台で、中望遠ズーム、標準ズーム、広角ズームの3本のレンズを付け替えながら近付いていく。雨がよく降る地域で、湿潤な気候のせいなのか、原野にはヒルがかなり多い。長靴を履いているのだが、気が付くと靴下の中に入り込み、食い付かれている。腹ばいになって撮ったりもするので、油断をすると途端にやられてしまう。フィールドでは、こうしたヒルやダニや蚊やアリなどが、一番厄介な存在だ。
巣穴に入ったウォンバットを見つけたので、しばらく様子を見ていると、辺りをうかがうのか、たまに顔をのぞかせていた。そして僕がいるのに気付くと、お尻を向けて入り口にふたをしてしまった。ウォンバットのお尻はとても皮膚が厚く、けんかの時は攻撃されてもびくともしないお尻を相手に向け、後ろ足で蹴るのだという。足も速いから、蹴る力も相当なものかもしれない。
ウォンバットという名前は、先住民族のアボリジニの言葉で、平たい鼻という意味。昨日は平たい鼻を3頭も捕ったよ、とか話をしていたのだろう。以前は作物を荒らす害獣として駆除されることもあったのだが、現在は大切に保護されている。
1969年東京都生まれ。和光高等学校卒業。
エンジニアとしてコンピュータ関連会社に勤務した後、独学で写真を始める。1997年から動物写真家・田中光常氏の助手を務め、2000年からフリーでの活動を開始。世界を舞台に、野生動物の生きる姿をテーマに撮影に取り組み、雑誌、写真集、写真展などで作品を発表している。2008年日本写真協会賞新人賞受賞、2013年第1回日経ナショナル ジオグラフィック写真賞グランプリ受賞。公益社団法人日本写真家協会会員。主な著書に『動物写真家という仕事』など。