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三洋化成ニュース No.535
2022.11.28
妻で歌人の河野裕子が亡くなって、今年は13回忌となる。墓は作らないと公言していたのだが、ふとしたことから墓を買うことになった。京都、東山山麓の法然院の墓地である。
「銀閣寺が多くの観光客でごったがえしているのと対照的に、そこからわずかしか離れていないのに、法然院はいつも静寂のなかに簡浄なたたずまいを見せている。時たま観光客らしき人々を見かけるが、話し声さえみな静かである。この空間にはどこか人を寡黙にさせる落ち着きがある」と、私は書いたことがあった(『京都うた紀行』)。
その法然院は、私たちが結婚する前、学生時代に最もよく歩いた場所だろう。なるべく人のいない所(!)を探していると、行く所はおのずから限られ、墓地などはその最適地なのであった。黒谷と法然院の墓地を特によく歩き回ったが、法然院には、河上肇、谷崎潤一郎、九鬼周造、川田順、内藤湖南などの墓が並んでいて、歩いていて話題に事欠かないのも魅力だっただろうか。
数年前、NHKで私のドキュメンタリーを作ってくれることになり、スタッフやカメラさんたちと法然院を歩くことになった。河上肇、谷崎潤一郎といったいつものコースを歩いていくと、九鬼周造の墓の手前にあったはずの川田順の墓が、ない!
川田順は明治生まれの歌人で、住友総本社の常務理事まで務めた実業界の大物でもあった。総理事就任がほぼ確定していた直前に、自らその器にあらずとして住友を辞して、世間を驚かせた。歌人としては、佐佐木信綱門下の歌人として活躍し、帝国芸術院賞などを受賞したほか、宮中歌会始詠進歌の選者や、明仁上皇が皇太子の時代に歌の指導者なども務めた人である。
川田順が一般社会で知られるようになったのは、昭和24年、人妻である鈴鹿俊子との、いわゆる「老いらくの恋」が発覚し、川田家の墓の前で自殺未遂を起こしたことによるかも知れない。新聞などで書き立てられ、「老いらくの恋」が時の流行語にまでなったのである。しかし川田の思いは純粋であり、その後、離婚が成立した俊子とは、死までを仲むつまじく過ごしたのであった。
相触れて帰りきたりし日のまひる天の怒りの春雷ふるふ
川田順『歌集 東歸』1952年発行
テレビカメラに向かって、ここに川田順の墓があったはずなのですが、などと話しながら、私のなかにかすかに動くものがあった。その時はまだはっきりと意識したわけではなかったのだが、不意にここに河野の墓を建てようと思ったのは、そのすぐ後のことだったはずだ。川田順の墓の跡地、それだけなら決心はしなかっただろうが、そこは私たちが何度も歩いたデートコースなのでもあった。
ここならば寂しくなからう法然院いくたび君と歩きたる道
衝動買ひといふに近いか墓などは持たぬと公言してゐたはずが
墓を衝動買いなどと言ったら罰が当たりそうだが、歌人河野裕子の墓ができることは、彼女のお弟子さんやファンの方々にとっても必ず行ってみたい場所になるだろう。
これを機に、以前私が主宰していた短歌会「塔」が、法然院の参道に私たちの歌碑建立の委員会を作り、寄付を募って歌碑まで作ってくれることになった。
この9月8日に新しく建った墓に河野の骨の一部を納骨し、翌9日には私たちの相聞歌を刻んだ歌碑の除幕式が催行された。
われを呼ぶうら若きこゑよ喉ぼとけ桃の核ほどひかりてゐたる 裕子
きみに逢う以前のぼくに遭いたくて海へのバスに揺られていたり 和宏
これまでも法然院は懐かしく大切な場であったが、これらの思いもかけない展開を契機として、これからは以前にも増して、法然院が私にとって大切な場となっていくに違いない。
1947年滋賀県生まれ。歌人・細胞生物学者。京都大学理学部物理学科卒業。京大再生医科学研究所教授などを経て、2020年よりJT生命誌研究館館長。日本細胞生物学会元会長、京大名誉教授、京都産業大名誉教授。歌人として宮中歌会始詠進歌選者、朝日歌壇選者を務める。「塔」短歌会前主宰。読売文学賞、迢空賞など受賞多数。2009年、紫綬褒章受章。歌人・河野裕子と1972年に結婚し、2010年に亡くなるまで38年間連れ添った。著書に『知の体力』『置行堀』『歌に私は泣くだらう―妻・河野裕子 闘病の十年』など多数。