MENU

エッセンシャルワーカーの処遇を改善し、日本の社会経済の基盤強化を

三洋化成ニュース No.545

エッセンシャルワーカーの処遇を改善し、日本の社会経済の基盤強化を

シェアする

2024.10.11

経済学者
田中 洋子〈たなか ようこ〉
Yoko Tanaka

1958年東京都出身。東京大学大学院経済学研究科修了。博士(経済学)。東京大学経済学部助手、筑波大学人文社会科学研究科准教授、人文社会系教授を経て、2024年より筑波大学名誉教授、ベルリン自由大学フリードリヒ・マイネッケ研究所研究員および法政大学大原社会問題研究所研究員。長年ドイツの歴史分析と現状調査に携わり、毎年2カ月はドイツ、および世界各地に滞在し、グローバル化の実態を調査している。主な著書に『ドイツ企業社会の形成と変容 クルップ社における労働・生活・統治』『エッセンシャルワーカー 社会に不可欠な仕事なのに、なぜ安く使われるのか』(編著)など。

写真=本間伸彦

コロナ禍で「日常生活になくてはならない仕事をする人」として注目を集めたエッセンシャルワーカー。この仕事の担い手のおかげで、基礎的な社会機能を維持できていることに感謝の気持ちを新たにした方も多いのではないでしょうか。長年ドイツの労働や生活の実態を研究対象としてきた経済学者の田中洋子さんは、日本のエッセンシャルワーカーの処遇の悪化を、日本の世界的な地位低下をもたらす要因の一つとして警鐘を鳴らしています。ドイツと日本で目の当たりにした働き方の違いと、日本社会の未来を損ないかねない危機的な現状を回避するための方策についてお聞きしました。

 

日本と大きく異なるドイツの働き方

ベルリン社会科学研究所の元所長で、ドイツ近現代史の大家であるユルゲン・コッカ先生と奥様とともに

-- エッセンシャルワーカーという言葉は、コロナ禍で耳にするようになりました。

はい。当時は世界各地でロックダウンが行われ、日本でも緊急事態宣言が発出されて外出自粛などが呼びかけられました。そうしたなかでも、医療、小売、生活サービス、物流・運送、介護・保育などに携わる方々には、働き続けてもらわないと困るという認識が広がったのです。基礎的な社会機能を維持し、日常生活を送るために、必要不可欠な仕事に従事する人たちのことをエッセンシャルワーカーと呼ぶようになりました。このなかには非正規雇用で働く方も多いです。

-- 田中先生はコロナ以前からエッセンシャルワーカーについて研究されていたのですね。

はい。2013年頃に女性の非正規雇用に関心を持つ研究者が集まって国際比較研究をするプロジェクトに参加し、日本とドイツのスーパーマーケットなどを視察したのがきっかけです。その時、ドイツの働き方が、日本とは全く違っているのを目の当たりにして、みんなびっくりしたんですよ。

-- どのように違うんですか。

日本とドイツのスーパーで働く女性パートタイマーの割合はほぼ同じですが、処遇は大きく違います。日本のパートタイマーは非正規で雇用されていて正社員と同じ仕事をしていても給与体系が違うんです。長く働いているベテランでも給与は最低賃金に近く、昇給もたまに時給が10円上がる程度で、年収は200万円前後と、家計の補助にしかなりません。片や、ドイツのパートタイマーは働く時間が短いだけの正社員で、フルタイムの正社員と同じ給与体系が適用されます。ちなみに最低賃金も目下では約2000円と、日本よりも高いです。

さらに、日本では半年や1年の有期契約なので、いつまで同じ職場に勤め続けられるかわからず不安定です。一方でドイツでは理由のない有期契約が禁止されていて、パートタイマーも正社員なので無期雇用です。フルタイムで働く人には短時間勤務に移れる権利があり、企業はこれを拒否できないと法律で定められています。そのため個人や家庭の状況に応じて労働時間を短くしたり、フルタイムに戻ったりできます。

-- 時短の人ばかりだと、人手が足りなくなりませんか。

最初から、人手が足りるように多めに採用しておくんですよ。

-- そのようなことができるんですか。日本とはずいぶん違いますね。

そう感じますよね(笑)。ドイツのパートタイマーは有給休暇や年金などの福利厚生もフルタイムの正社員と全く同じ処遇です。スーパーでは一部の上層幹部だけ特別な契約を結んで転勤しますが、それ以外のポジションでは本人が望まない異動命令もありませんから、生活も安定しているんですよ。

-- スーパーのような小売業以外の職場でも同じように安定して働けるのですか。

そうなんですよ。というのも、ドイツはジョブ型の雇用制度です。あらゆる業界でパートタイムでもフルタイムでも、ジョブ型では同じ仕事をする人は同じ等級・同じ給与水準で働いています。会社の中の各部局の独立性が高く、人事部の権限は強くないので、人事部の命令で転勤させられるということはなく、部局の中でチームリーダーと従業員が話し合いながら自由に働き方を決められます。会社に入ってからもさまざまな教育・研修を受けながら、自分の希望する職種で資格・スキルアップをしていくことができます。日本のハローワークに当たるジョブセンターという機関でも、ジョブに対する資格取得や企業とのマッチングを積極的に支援してくれます。

-- なるほど。ドイツでは、就職活動はどのようにするのでしょうか。

採用は通年で行われていますから、応募者が自分のタイミングで企業ホームページから応募しています。私がインタビューした人のなかには「志望企業の担当者とコーヒーを2回飲んだら、採用が決まった」と言う人もいて、就職活動の負担も日本に比べてずっと少ないです。1年間専門学校に通った、旅をしていたなど、職歴に空白があることも全く問題視されません。

-- 日本では第2新卒という言葉も生まれて、少しずつ変わってきていますが、新卒一括採用がまだまだ主流です。

そうですね。また、残業時間の扱い方も違うんですよ。どの企業にも忙しい時期とそうでない時期がありますよね。ドイツの場合は「労働時間口座」という仕組みをうまく活用しています。従業員が忙しい時期に残業したら、その時間をポイントとして貯めておき、先々休暇を増やしたり、早く帰ったりといろいろな形で使うことができるんです。企業にとっても繁閑期に合わせて人員を調整でき、残業代を払う必要がないので便利ですよ。リーマンショックで2009年に製造業の需要が大幅に減った時やコロナ禍でも、この制度を利用して乗り切ったんです。日本はサービス残業や非正規の存在が、こうした時間調整の制度を妨害しています。

日本は1970年代以降、パートタイマーやアルバイトという、忙しい時だけ安く使って不況時にすぐに切れる、雇い主側に都合の良い働き方を拡大してきました。現在は働く人全体の4割にも及んでいます。日本の学生に話を聞くと、決算を締めたり、英語の会議の議事録をとるという専門的な知識や技能が必要なインターンシップを、アルバイト並みの安い時給で行っている会社もあります。確かにやりがいはあるでしょうが、求められる仕事内容やエネルギーに給与が見合っていません。やりがい搾取になっています。ドイツだったら、こうしたインターンには時給2000円は支払われるのが普通ですよ。学生のアルバイトでもきちんと稼げるので、学業を優先することができています。日本では、家庭からの学費や生活費の援助が全くなくて、アルバイトをしないと就学継続が困難な学生が今や20%以上いるといわれています。授業の隙間にびっちりアルバイトをいれているゼミ生もいて、驚くことがあります。

 

予算や教員が削られる教育の現場

-- 生活費をまかなうために働いている学生も増えているのですね。日本の大学での教員や職員の働き方はいかがでしょうか。

国立大学を例に挙げると、予算がどんどん減らされて、研究や教育に十分な費用や時間が回せない状況です。海外の研究者と会話していると、「なぜ、日本では、いつも『予算がない』という話が出てくるのか」と不思議がられますよ。

人材の面では90年代から大学職員の非正規化が始まり、正規の職員は事務室から一人もいなくなってしまいました。日本では有期雇用で5年働いた人は無期雇用に転換させるという法律があるため、有期で短時間勤務をしていた大学の事務担当者は、5年勤続する直前に契約を打ち切られてしまいます。ベテランの現場の担当者がいなくなってしまうせいで、大学教授が研究ではなく、事務仕事に追われてしまう。博士課程の研究者が特任教員として有期で採用されて膨大な事務仕事を任されることもありますが、彼らが疲弊し、体を壊してしまい、自身の研究ができなくなる例も聞きます。研究者一人ひとりを大切に育てて、その人自身の個性や力を発揮してもらわないといけないのに、目先の人件費を削減するために安い非正規の人材としてつぶしてしまうんです。人にコストをかけない風潮が加速することで、大学の教育や研究がしわ寄せを受けています。社会的に大変大きな損失です。

-- 大学が日本の未来をつくっていく役割を十分に果たせなくなりそうです。小中学校の教員志望者も減っていると聞きます。

はい。義務教育の現場でも国庫負担制度の見直しなどに伴って人件費が削減され、非正規教員が増加し、教員の働き過ぎも常態化しています。地域によっては新学期が始まる直前までクラス担任も決められないほどに、教員不足が進んでいるそうです。そして、このことが、社会に共有されていないことも大きな問題だと感じています。

 

公共性の高い職業やサービスの存続が危ぶまれる

90年代のバブル崩壊以降の日本では、目先の利益にとらわれ、安易な発想で人を安く雇って使いつぶすことが、特に私たちにとって不可欠な公共サービス分野で日常的になってしまっています。これは、日本社会全体を傷つけることにつながっています。働き盛りの世代が不利益を被って、生活保護を必要としたり、早く介護の必要な体になったりすれば、社会全体にとってマイナスでしかありません。

-- この問題の解決に、もっと積極的に取り組む必要があると感じます。

そうなのですが、なかなか進んでいません。例えば介護業界では、働く人が集まらないので介護事業所支援の補助金が給付されていますが、現場で働いている人のもとにまでお金が渡っていません。予算は割かれていても、配分がうまくいっていないのです。そのうえ、2024年4月からは、訪問介護の報酬額が引き下げられたんですよ。訪問介護の利益率は、訪問先への移動時間の相違から、都会では高く、地方では低い傾向にあります。おそらく審議委員の人たちは統計の平均値だけを見て、現場のことを考えずに判断したのでしょう。これにより地方の介護拠点では、倒産が相次いでいます。

また保育現場では、給与改定で、新しく保育士になる人の給与が少し上がる一方で、経験を積んだ保育士の給与が下がるという事象も起きています。

現場の介護士や保育士は、「誰かのために」という思いでこの仕事を選んだ人が多いですから、高齢の利用者さんや子どもたちのためにと考えて報酬が少なくても無理をしてしまう。これも現場の労働者の優しい気持ちに付け込んだ、やりがい搾取といえると思います。

-- 一人ひとりが能力や適性などの個性を生かせる仕事に就き、業務内容に見合った条件で働けることが、労働者にとっても社会にとっても良いはずなのですが。

そのとおりです。かつて長距離トラックドライバーは大変だけれど稼げる仕事で、運転技術や体力に自信がある若者からも人気がありました。しかし、物流業界では、規制緩和が進むなかで景気が低迷し、激しいコスト競争にさらされました。その結果、荷主による運賃の買いたたきや荷役などの付帯サービスの過剰な要求が横行し、長時間労働はそのままに、収入だけが下がっていったのです。昨今、物流の2024年問題といわれ人手不足で注目が集まっていますが、そもそもは、この30年間に、限界的な長時間労働や過積載、収入減と働く条件の悪化という状況が構造的に運送業界で進んだことが問題だといえます。

-- コンビニやスーパー、通販も運送業者の皆さんによって成り立っていますから、他人事ではありません。

 

未来の日本社会を取り戻すために

友人宅で

物流業界では、国土交通省と全日本トラック協会が運賃の適正化を図る動きがあるんですよ。2019年に国土交通省・経済産業省・農林水産省が「ホワイト物流」推進運動を立ち上げ、多くの企業に商慣行や業務プロセスの見直しを求めるようになりました。

-- 今後の行方に注目します。

そうですね。小売業においても、2014年に家具・インテリアのイケア・ジャパンが全てのパートタイマーを短時間正社員にしました。人事部長にお会いして話を聞きましたが、社内の抵抗や反発はほとんどなく、パートタイマーのモチベーションが上がって売り上げも上がり、何のマイナスもなかったそうですよ。唯一、反対があったのが女性パートタイマーの旦那さんからで、奥さんが扶養から外れることや、旦那さんの会社の扶養手当がなくなることを問題視していたそうです。今の40、50代にはまだまだ、「妻は自分の扶養のなかにいるべき」と考える人がいるようです。

-- ただ、扶養手当を廃止する会社が増えてきているんですよね。

ええ。日本でも少し考え方を変えるだけで、低処遇の非正規のパートタイマーを短時間正社員に代えていくことができます。日本では以前から、育児期間中の短時間勤務が広がっているので、これを育児に限らず広げていけば、非正規をなくすことができます。有期契約には理由が必要と法律で定めるだけで、今の有期雇用は7、8割なくなると思います。最近になって日本政府は「人への投資」を主張するようになりました。ただでさえ労働力不足になる日本では、働く人にもっときちんとお金を回していくことが大切です。

日本は、規制緩和政策と不況の長期化が相まって、人件費の削減が進み続けました。そのなかで生活が追い詰められた人たちが、安く低い労働条件でも働かざるをえなくなり、負のマッチングが起きて、処遇悪化が定着しました。しかし、今や彼らはその低い条件に嫌気がさし、そこで働くことを見限りはじめています。

日本を持続可能な社会にしていくためには、コストカットではなくエッセンシャルワーカーの処遇を良くすることが急務です。彼らの仕事のおかげで、私たちは生活できているんです。私たちの社会生活は「お互い様」で成り立っています。このままいくと、あと10年ほどで、現場の仕事の担い手がどんどんいなくなって、日本の今の日常生活は深刻な危機に陥りかねません。エッセンシャルワーカーの処遇を根本的に改善する新しい制度づくりに、日本は本気で取り組まないといけないと思います。

-- エッセンシャルワーカーを取り巻く状況が悪化していることを認識し、現状に対する危機感を社会で広く共有することが大切ですね。私たち個人にできることはないでしょうか。

例えば、選挙のタイミングで候補者がエッセンシャルワーカーの仕事についてどう考えているかに注意を払うなど、もっと関心を持つといいかもしれませんね。

-- 私たち一人ひとりが意識を変えて、社会を変えていく一歩を踏み出す必要がありますね。本日は、ありがとうございました。

 

と   き:2024年6月3日
と こ ろ:西新橋・当社東京支社にて

 

関連記事Related Article

PAGE TOP