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ラマレラのクジラ漁

三洋化成ニュース No.547

ラマレラのクジラ漁

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2025.04.11

文・写真=探検家 関野吉晴

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一度クジラに銛を刺すことに成功しても、潜って逃げてしまうので、
息継ぎに出てきた時を狙って二番銛を打つ。クジラが潮を吹いている

旅程:2008年7月 インドネシア・ソロール諸島、レンバタ島

木造の船でクジラを追う

インドネシア・ソロール諸島のレンバタ島に行った。その島の南西海岸にラマレラという、人口2000人の捕鯨をしている村がある。彼らの捕鯨は商業的なものではなく、生存漁労、つまりこの生業なりわいなくしては生きていけない漁だ。この村の沖合は急に深くなっている。そのためにマッコウクジラの回遊路になっている。5月から10月までが漁期だ。年間40頭以上捕れた年もあるが、4頭しか捕れなかった年もある。運、不運に左右される不安定な漁だ。

クジラに船をひっくり返されることもあるため、クジラに近づく時は高価なエンジンは外して別の船に渡し、手漕ぎで慎重に進む

2008年、私たちが行った時は、5月に12頭、6月に5頭捕れて、それ以来捕れていなかった。しかし、幸運にも9日間の滞在中に2回も「バレオ!」という声が掛かった。これは「クジラが出たぞ!」の意味で、クジラが発見されると全ての村人に大声で伝えられる。

一回目の「バレオ」は7月31日、プレダン(彼らの伝統的な、木造帆船)に乗っている時だった。一斉に出たプレダンの1艇に乗っていたのだが、他のプレダンが発見したという連絡が入った。まだラマレラに着いて4日目、こんなに早くマッコウクジラが見られるとは思っていなかった。まだ心の準備はできておらず、慌てた。そして心が高鳴った。既にマンタ(巨大エイ)漁は見ていたが、プレダンの乗組員の反応や表情、意気込みは、マンタとクジラとでは大違いだ。険しいが、高揚した表情だ。20頭ほどの群れだった。この時期の群れは子連れが多い。「バレオ」の掛け声の方向に急いで向かう。ほとんどのプレダンがエンジン付きだ。他のプレダンがクジラに接近していた。プレダン特有の、先端に突き出た竹製の台の上で、長い柄のついたもりを持ったラマファー(射手)が黒い塊を凝視していた。

 

チームワークを発揮し銛一本でクジラを仕留める

クジラに近づいた。先頭のラマファーが、後ろにいる助手に「銛を渡せ」とジェスチャーで伝えている

ラマファーのすぐ後ろに助手がいて、大きなジェスチャーでプレダンのかじを握る者に進むべき方向を指示している。ラマファーが潮を吹くクジラの背中に向かって思い切りジャンプした。銛に全体重をかけて、クジラの体内にできるだけ奥深くまで突き刺そうとしている。うまく突き刺さったのだろうか。クジラはそのまま潜っていった。この時にプレダンが尾びれに叩かれて沈没することもある。

クジラは皮膚が厚く、銛を投げるだけでは跳ね返されてしまう。船から跳んだラマファーが体重を思いきりかけ、銛がクジラに突き刺さった。ラマファーは乗組員から尊敬されている

ラマファーは泳いでプレダンに戻った。そのプレダンの乗組員たちが銛につながっていたロープを引っ張っている。銛はクジラの体を射抜いたようだ。クジラが疲れるのを待って、引き寄せ、次の一撃を加えなければならない。群れのクジラたちも動揺しているようで、分散し始めた。銛の刺さったクジラは1度で仕留められるわけではない。深く潜って、再び浮上して大きく潮を吹く。疲れるのを待って、2度、3度とラマファーがジャンプしなければならない。1頭のクジラをその艇に任せて、他のプレダンは散っていった。しかし、この日に捕れたクジラは1頭だけだった。クジラが村の海岸に上げられると、多くの村人たちが集まってきた。プレダンをヤシの葉でふいた屋根がかぶせられた艇庫にみんなで押し上げた。クジラも浜の端に寄せた。解体は翌日にすることになった。

 

捕らえたクジラを分配し物々交換で分かち合う

村の人たちも、漁を終えた船を陸に上げるのを手伝う

クジラは夜中のうちに、浜辺の水際に移されていた。翌朝、明るくなっても、日の出前は人影が少ない。村の若い女性たちが携帯電話でクジラと一緒に記念撮影をしていた。2年前に電気が通じ、村のごく一部だが、1年前から携帯電話が使えるようになっていた。夜明けとともに男たちが集まり始めた。やや大きなナイフで分厚い脂肪のついた表皮を剥がしていく。老人たちの指導で肉、内臓なども次々と解体していく。一方で浜辺では分配も行われる。分配にあずかれるのはクジラを仕留めたラマファーが乗っていたプレダンの乗組員全員だ。漁の時にどんな役割をしたかで、解体したクジラのどの部分が分配されるのか、詳細に決められている。浜辺で男たちが車座になって、分配を始めた。それらは自宅に持ち帰ってさらに細かくされた。それを親戚の者、近隣の者に分配する。最終的にはほとんどの家族にまで行き渡る。

彼らはクジラの表皮や脂肪、肉、内臓、頭の全てを分配し、持ち帰るが、それらの半分は定期市で農産物と物々交換される。定期市は土曜日に、ラマレラから7キロメートル東に行ったウランドニ村で開かれる。頭に大きな荷を載せて徒歩で行く者もいるが、最近走り始めた乗り合いバスで行く者も多い。

大きな木の周りに農民や他の漁村からも多くの女性が集まっていた。サルーンにトウモロコシ、バナナ、アボカドその他の野菜を並べていた。漁師町からは魚を持って来ている。午前10時に村の役人が笛を吹いた。物々交換開始の合図だ。交換のレートは決まっている場合もある。例えば干したクジラ肉の小片はバナナ12本と交換する。しかし値段交渉する場合も多い。この物々交換のおかげで畑作のできないラマレラの人たちも農産物を手に入れているのだ。

左:分配されたクジラの肉を頭に載せて持ち帰る
右:定期市で行われる物々交換。クジラ肉を手にして交渉

関野 吉晴〈せきの よしはる〉

1949年東京生まれ。一橋大学在学中に同大探検部を創設し、アマゾン全域踏査隊長としてアマゾン川全域を下る。1993年から、アフリカに誕生した人類がユーラシア大陸を通ってアメリカ大陸にまで拡散していった約5万3千kmの行程を遡行する旅「グレートジャーニー」を開始。南米最先端ナバリーノ島を出発し、10年の歳月をかけて、2002年2月10日タンザニア・ラエトリにゴールした。「新グレートジャーニー 日本列島にやって来た人々」は2003年にシベリア、サハリン経由の北方ルートから始め、中国から朝鮮半島経由のルートを終え、最後に海上ルートは2011年に石垣島にゴールした。

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