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三洋化成ニュース No.508
2018.05.01
深い緑の葉を三角の帽子のように戴き、細い幹を高さ比べのようにしてまっすぐに伸ばす杉林。京都のまちから北の山地へ入ってゆくと、蒼い空気が胸いっぱいに満ちる。これこそ、北山の風景だ。
川端康成の小説『古都』(1962年)。双子の姉妹の数奇な運命を、作中と同時代の京都を舞台に描く。――うち、北山杉が見とうなったわ――中京の京呉服問屋のむすめ千重子はある日、友人と北山に出かけた。そして北山杉の磨き丸太づくりに賑わう山の集落で、自分と瓜二つの女性を見かける。それは生き別れになった双子の妹、苗子だった。まちと山とに分かれて育ち、本来は出会うはずのない人間として設定される二人の再会の地が、中川北山である。
中川北山町(旧中川村、中河村)は、京都の市街地北西の山中に位置する。清滝川が削り出した急峻な渓谷に100戸ほどの民家が軒を寄せうようにして集まり、川沿いのわずかな平地には杉の丸太を入れる巨大な木造倉庫が建ち並ぶ。そう、ここは、北山杉林業発祥の集落だ。
中川の歴史は、古い。史料上の初見は13世紀にさかのぼる。中川の集落には、耕作可能な土地がきわめて少ない。柴や松茸などさまざまな山の産品を搬出し、領主や朝廷、幕府に納めて暮らしてきた。そしていつからかそのなかに、建材として杉を丸太のまま出荷するなりわいがおこった。戦国末期から江戸時代初めにつくられた茶室や離宮の建築には、各所に杉丸太が使われている。詳しい経緯はよくわからないが、数寄屋の好みの広がりと中川での杉丸太生産の拡大は連動しており、のち江戸時代中期には本格的な生産が行われたと考えられている。山は、京都という都市で醸成された建築の粋を反映していった。維新以降、北山杉丸太の需要はさらに拡大し、大正時代には東京市場での取引も始まる。戦後復興が一段落した高度成長期には、全国で大量の住宅や旅館などの宿泊施設が新築された。北山杉磨き丸太はそれらの和室の床柱などとして、生産量のピークを迎える。
ところで中川の杉はかつて、「台杉仕立て」と呼ばれる独特の方法で育てられていた。一つの株からたくさんの幹を、天に向かって垂直に伸ばす。それらが垂木や床柱など建材の寸法に見合う太さになると、株から切り出した。それらの台杉は主に民家近くの山裾にあった。しかし北山杉の需要が拡大の一途をたどる明治中期以降には、苗杉を山の斜面に直接植林する「一本仕立て」と呼ばれる育林法への転換が進んだ。千重子や現代のわたしたちが思い描く北山の山林風景――形の揃った美麗な杉が斜面を覆う北山のイメージ――とは、実はこうして出来上がったものだ。しかもそれが北山の各地に広がったのは、実に戦後のことである。『古都』に描かれる中川や北山の光景は、このような時代背景のもとにある山の風景だったのだ。
わたしたちは時折、京都の風景をずっとそこにあったものとして受け取っている。しかしそれは、京都のまちそれ自体の変化はもちろん、日本や世界の変化とつながりながら変わっていくものだ。そんなことも頭において、京都の神話をコツコツとノックしながら歩いてみたいと思う。