MENU
三洋化成ニュース No.510
2018.09.01
京都の中心部から北へ約100キロ。日本海に突き出す丹後半島の東の付け根に、宮津のまちはあります。細川氏と京極氏が興した城下町。北前船の船主が大きな屋敷を構え、また今も漁師たちが活躍する海のまちでもあります。
まちのなかほど、かつての海岸線に接して、「新浜」と呼ばれる一画があります。江戸時代に埋め立てによってつくられた新地。天保13(1842)年、ここに城下の廓がおかれます。新浜の廓は、祇園や上七軒と同じように大勢の芸妓や舞妓を抱える茶屋町でもありました。そしてここではさまざまな芸能も育ったのです。
明治時代末のこと。1908年の宮津に二人の外国人青年がやってきました。ベルンハルト・ケラーマンというドイツ人作家と、カール・ヴァルザーというスイス人画家。二人はシベリア鉄道と船で来日し、東京や京都を経由して宮津にやってきたのでした。当時のヨーロッパはジャポニズムの真っ盛り。出版社はこの売れっ子作家たちを日本へ送り込み、彼らの紀行をヨーロッパに届けて一稼ぎしようと考えたのです。しかしケラーマンにとって宮津との出会いは、そんな企画のもくろみを超える印象深い想い出になったようです。--「ぼくは日本に滞在中、このまちがもっとも気に入った」。ケラーマンの著書『日本散策記』(1910年)の宮津の章は、こんなふうに始まります。
なかでもケラーマンが最大の関心を寄せたのは、茶屋町に生きる人々の人生と、夜ごと繰り広げられる多様な舞でした。ケラーマン『さっさよやっさ、日本の踊り』(1911年)はまるごと一冊、宮津の茶屋町とその文化に捧げられた本です。この小さな本には、宮津の芸妓たちが演じていた10ほどの踊りの様子が克明に記されています。
それから100年余りの時が経ちました。「千夜一夜物語に出てくる都市のようだ」とケラーマンが語った茶屋町の家々は、いまは夜のとばりの中に静まっています。
宮津でわたしは、新浜に生きた最後の芸妓たちに会うことができました。-「宮津の芸妓はんは良かったよ。ほんまにええお師匠さんたちがいたはった」。彼女たちは幼い頃、京都や大阪から宮津の置屋へ住み込み、ここで芸を学んだといいます。彼女たちの記憶によると、宮津の茶屋町にいちばん活気があったのは昭和30年代の初めのこと。丹後のちりめん、伊根のブリ、そして繊維業や鉱業が、終戦後の地域経済を押し上げていた時代でした。-「正月用のかんざしを、京都へ買いに行きましたんや」。老妓はそう語ります。お正月には黒紋付きを着て、髪の前差しに稲穂を挿す。「実りあるように、言うて」-。かつてレコードを出したほどの歌の名手だった芸妓の元も訪ねました。高齢の彼女は既に過去のほとんどの記憶を失っていましたが、それでもなお絶対に消えない記憶があったのです。それは、歌。彼女が過去にこの土地で最もよく歌ったであろう、宮津節の一節が、ふと彼女の唇からこぼれだすのです。
天橋立に臨む、宮津の茶屋町。暗がりと華やぎがしじまを投げ掛けるまち。このまちの過去を知るひとはとても少なくなりました。京都の各地に花開いた歴史の数々、そしていまそっと閉じられようとしている数多の記憶。眠りにつこうとしている時空の蓋は、でも、もしかしたらまだ薄く開いているかもしれない。つま先はその隙間を探しているのです。