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三洋化成ニュース No.502
2017.05.08
日本の女性ロックシンガーの先駆けとして、1980年代に「CHANCE」をヒットさせ「ロックの女王」と呼ばれた白井貴子さん。2年間のロンドン生活を経て音楽活動を再開し、子どもたちのための歌づくり、環境保護活動、テレビ番組のリポーターなど活躍の幅を広げてきました。音楽活動35周年を迎えた2016年には、ロックとフォークを融合したニューアルバムを発表し、新たな一歩を踏み出しています。音楽や自然に対する思い、その多彩な活動について、お聞きしました。
-- 昨年、「涙河(NAMIDAGAWA) 白井貴子『北山修/きたやまおさむ』を歌う」をリリースされました。これはどのような作品ですか。
ザ・フォーク・クルセダーズの作詞家、きたやまおさむであり、精神科医の北山修さんの代表曲「あの素晴らしい愛をもう一度」、「さらば恋人」などを、私がアレンジして歌ったものや、きたやまさんと共作させていただき作った新曲3曲が収録されています。昨年は私の音楽活動35周年でもあり、とても思い出深い年になりました。
-- なぜ、きたやまさんの作詞された曲を歌うことになったのですか。
ライブとCDでお世話になっている音楽制作会社で打ち合わせをしていた時、偶然、あの、きたやまさんから、その会社の社長さんに電話が入りました。「誰か、僕の曲を歌ってくれる女性歌手はいないかな」と。その時、目の前にいたのが、私だったんです! それで「白井さん、どうですか?」といきなり聞かれ、即答でした!「ハイ! 喜んでやらせていただきます!」と。幼い頃、きたやまさんの曲が大好きで、最初に買ったアナログのシングルが「白い色は恋人の色」でした。日本のビートルズのように尊敬していた方なので、一緒に曲を作ると決まった時は、口から心臓が飛び出そうでした(笑)。きたやまさんが作られた詞に私が曲をつけるものだと思っていたのですが、「いつ曲くれるの?」と言われてびっくりしました
-- きたやまさんは、いつも曲に詞をつけられるのですね。「こういう曲にしましょう」という打ち合わせなどもなかったんですか。
そうなんです。自由に作っていいと言われて、逆に苦労してずいぶん時間がかかってしまいました。シンプルな五七五調のようなメロディーラインを目指したのですが、曲の構築の仕方なども、非常にいい勉強になりました。
-- 「涙河」を聴かせていただきました。身体のどこにも負担をかけていないようなクリアな声で、一つひとつの言葉をはっきりと歌っていらっしゃっていて、思いが伝わってきました。きたやまさんが白井さんを選ばれた理由がわかるような気がします。
うれしい。まずは、オリジナルの歌のファンの皆さんをガッカリさせないように!と思うと、予想以上の大変な作業でしたが、そんな感想をいただきうれしいです。
-- 良い歌をまた別の歌手の方が歌って、未来に歌い継がれていくというのは、とても素敵なことですね。ところで、白井さんが、ロックに興味を持ったきっかけは何だったのでしょうか。
10代の頃は、ビートルズやローリング・ストーンズにぞっこんのロック少女で、ピアノやアコースティック・ギターもやっていました。
京都の高校に通っていた時期は、よく河原町の喫茶店でレコードを聴いていましたね。音楽が大好きで、音楽に関わる仕事がしたいと思っていたので、大学では音楽科に入り、作曲を学びました。オリジナル曲を作って、知り合ったバンドとライブを開催するようになった頃、友達がデモテープをオーディションに応募してくれたんです。音楽に関わる仕事をしたいとは思っていましたが、まさかシンガーソングライターになるとは思ってもいませんでした。
-- プロの歌手になりたいという強い思いがあったわけではなかったんですか。
当時、私は洋楽に耳が向いていたので、日本の芸能界はほとんどわからない状態でした。活動していくうちに「人生は一度しかないんだから、自分ができそうなことを最大限がんばりたい」という思いが強くなってきました。
-- 私は中学生の頃に白井さんを知ったのですが、当時の私がちょっと背伸びをして聴くような格好いい音楽をやっている、都会の洗練された女の人という印象でした。ロックは、既成のものを壊していく魂の叫びというイメージがあります。
その頃は、そうとう突っ張って音楽をやっていたと思います。でも、20代の終わりに心身ともに、もうこれ以上活動できない!という限界を感じ、自分自身もう若くない、子どもじゃないと自覚しはじめた時、大人の社会に対して拳を上げるようなそれまでの音楽ではなく、自分の肉体と魂に素直に音楽を作りたいと思うようになったんです。しかし当時は、キャンディーズや山口百恵さんのように、女性歌手は20代後半で引退するのが「女の花道」のように思われていました。
-- 「女性はクリスマスケーキ」なんて言われて、どんなに才能を発揮していても、25歳を過ぎると「結婚しないの?」という目で見られるような時代でした。音楽の世界でも、そうだったのですね。
まだまだ保守的な時代でした。でも私は、せっかくロックをやると決めてデビューしたんだから、もっともっと自分が納得する音楽を作って、周りの人にも喜んでもらいたかったんです。しかし、現実には、ラジオにテレビに曲作りにバンドの編曲からリハーサル、そしてライブ……とスケジュールをこなしていくなか、一方でヒットというハードルを常に越え続けなくては、事務所は納得しない。男の中の女一匹(笑)で非常に苦しい状況に追い込まれました。小さい頃はほとんど野生児のように外で遊んでいた子が、1日の日照時間が1時間もなく、創作のための時間も全く取れないという生活が何年も続きました。それは疲弊もしますよね。このままでは自分がダメになってしまうと感じたんです。
-- そんな苦しみがあったのですね。
人に着せられた鎧もあったし、女の子のロックという新しいものを作ろうとして、自ら着た鎧もあった。知らず知らずのうちに自分で自分を縛り付けていたかもしれません。そんなある日、仕事でロンドンに行った時に出会ったマーガレットの花が、大切なことを教えてくれました。
-- マーガレットというと、小さな白い菊のような花ですよね。どんなふうに咲いていたんですか。
自然に生えている、何でもない小さな花だけど、お花屋さんに売っている花とは違って、触ったらトゲがあるような鋭さがあるのに、大地の力を吸い取って元気に、凛とかわいく空を見上げて咲いていたんです。この野生のマーガレットのように素直に健康に生きていけばきっと幸せだろうし、周りの人にも元気になってもらえるんじゃないか、とふっとひらめきました。音楽の世界でトップになったり、大ヒットを飛ばしたりすることが、全て無意味に思え、活動を休止してロンドンに行くことに。疲労が極限に達していたのか、ロンドンへ行く飛行機の中で倒れ、その後、1カ月くらい寝込んでしまったんです。
-- ロンドンでは何をしたいと思われていたのですか
ロンドンの空気を吸って生活したら、どんな歌が生まれるのか? 大人としての土台づくりを英国でスタートさせたかったんです。それで、体調が良くなってきたところで家を買ったんです。
-- ホテルや賃貸ではなく、家を買うというのは「私はここで暮らす」という決意表明だったのですね。
そうなんです。最初は、夢のように、ベッドに靴を履いたまま足を投げ出して、ギターを弾いてみました。でも、一週間くらいすると掃除を始めて、靴も玄関で脱ぐようになり、日本食が恋しくなって日本から持ってきたお釜でごはんを炊きました。住んでいた家は築200年くらいのヴィクトリア時代の建物だったんですが、3メートルほどある高い天井に向かってほかほかと湯気が上がったのを見て、お茶わんとお箸を並べたのを覚えています。本当に、私って日本人だなぁと(笑)。
-- その建物の200年の歴史のなかで、ごはんを炊いた人は初めてだったかもしれませんね。
ちょうどその頃、昭和天皇が崩御され、国葬の風景が英国の新聞の第一面を埋め尽くし、強いショックを受けました。母国というものを初めて意識した瞬間でした。英語を学ぶためにも日本語は使わないようにしていたんですが、ある時自分のベスト盤を聴いたら、自分の声なのに日本語が心に突き刺さりました。また、イギリスの人たちが自分たちの言葉に強い誇りを持っていて、アメリカ英語と明確に区別するのを知り、私はこれほど日本語に誇りを持っているだろうかと、考えさせられました。もっと日本語を大切にする音楽家になりたいと思い、帰国を決意したんです。
-- ロンドンでの生活は、自分を見つめ直し、もう一度呼吸をし直すような時間だったのですね。
自分のひらめきに正直に生きていくために必要な時間でした。私はロンドンで初めて日本人になったのだと思います。根を張るべき場所は日本なんだ、という思いを得て、人生の目的を見つけることができました。
-- 白井さんが根を張って、栄養を吸収してお日さまに向かって笑うのは、日本の大地だったということですね。現在の日本には、かつての白井さんのように、がんばっているのに何となく歯車がうまくかみ合わないと感じている人が大勢いると思います。そんな人たちに、アドバイスをいただけませんか。
「閃きは宝物」です。「これってすごく素敵なことだ」、「これは自分にしかできないことだ」とひらめいて、それがきれいな泉のように見える時があると思うんです。その感動できた思いを、大切にしてほしいですね。人間はすぐ何かと比べてしまうから、そのひらめきよりも、別のものの方がよく見えてしまうこともある。でも、一度しかない人生だから、自分が感動した清らかな泉を大切に育てていく方が、たとえ失敗したとしても、あとで後悔しないと思います。
-- 日本に戻られて、活動の内容はどう変わったのですか。
マーガレットの花との出会いを通して、地球と仲良くして、地球の息吹をちゃんと吸い取っていくような生き方をしたいと思うようになりました。しかし帰国すると、日本はちょうどバブル景気で、ごみ置き場にまだまだ使えそうなものがたくさん捨てられていました。その光景にカルチャーショックを受け、まず足元から取り組もうと、ファンクラブの会報をリサイクルペーパーにしたり、間伐材を使ったオリジナルグッズを作ったり、ライブの前にファンと一緒に海辺のごみ拾いをしました。そんな時、自然が多い所に住みたいと思って家を探していると、南伊豆でとても懐かしさを感じる森に出会ったんです。その土地を買ったのが15年ほど前。その森の中で、キャンピングカーで生活した時期もあります。土いじりをすると、自分がどんどん元気になっていくのがわかりますよ。今は両親の介護をしているので、あまり行けていないんですが。
-- 土って、不思議ですよね。
土に触れた時の香り、幸せな気持ちを、子どもたちにもぜひ知ってほしいですね。文科省のお仕事で作った「僕らは大きな世界の一粒の命」という歌は、この森が与えてくれたようなものなんです。新緑の季節、久しぶりに森に行ったのですが、私の目の前に急に黄緑の虫が落ちてきて踊りはじめてビックリ!その時のうれしい出会いがそのまま曲になりました。
-- 私は、土は好きだけど虫はちょっと……。
その気持ちはとても大切なんですよ。「嫌だな」というその気持ちによって、自然とつながっているじゃないですか。今の子どもたちは虫を触ったことも、気持ち悪いと思ったこともなくて、命に触れる機会がないまま大人になってしまう。
-- 知らないから怖いというのが良くないんですね。
私は、一度しかない人生、虫も触れないのは悔しいなと思ったんです。嫌だと思っていたら絶対虫と仲良くなれないから、じゃあ自分から好きになろうと。ミミズやアリはすごく地球にいいことをしてくれいるんですよ。そのおかげで草木が育ち、私たちも生きていられるんです。今ではミミズを見ると「ありがとう」という気持ちになります。
-- そういうことをお聞きすると、私も少し虫に興味が出てきます。
ロンドンから帰国して以来、海や森、虫など自然の専門家の先生方とお会いするご縁をたくさんいただくなか、教えてもらったんです。
-- 小学校の校歌の作詞作曲や子どもたちのための歌づくりなど、さまざまな活動をされていますが、これからやっていきたいことは何ですか。
ロックも含めて、今までやってきた音楽をもっともっと広げていきたいですね。きたやまさんから引き継いだ歌を生きている限り丁寧に歌って後の世代に伝えていくのもその一つです。素晴らしい歌は日本の宝物です。日々、いい曲を作るためにがんばっていますが、名曲と呼ばれる過去の歌を超えるのは至難の業です。また、素晴らしい歌が忘れられてしまうのは、日本の自然豊かな原風景がなくなってしまうことと同じくらい残念なことだと思います。
-- 小田原ふるさと大使や、丹南ケーブルテレビの伝統の手仕事を伝える番組のリポーターなど、幅広く活動されていらっしゃいます。音楽以外の分野でのご活躍も楽しみです。
音楽以外の活動をいろいろやっているように思われるけれど、私にとってはそうではなくて、全てがいい音楽のための一刻一刻なんです。いい歌を歌って、人を元気にしてあげるためには、普段から森できれいな空気を吸っていたいし、勉強したいこともたくさんあるし、いろいろなことに感動して自分という楽器をいつも磨いておきたいし。
-- 白井さんにとって音楽と自然は、別物ではないんですね。
自然環境の破壊はどんどん進んでいて、もう守るしかないところまできています。でも、自然の中で人が暮らす以上、ちょっと自然に手を加えないといけない。文明の利器をうまく使いながら自然を守る道を見つけていきたいです。ロックは何かをぶっ壊すものというイメージが強いけれど、守り抜くロックがあってもいいと思うんです。私はこれをよく「エコとロックのハイブリッド」と言っています。女性の強みである、守る母性が、環境破壊の進む現代に必要なのだと思います。
-- 白井さんがこれからどのような音楽を作られるのか、楽しみにしています。本日はありがとうございました。
と き:2017年1月30日
ところ:東京・日本橋の当社東京支社にて