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三洋化成ニュース No.522
2020.10.16
「さんてつ、がんばれ〜っ!」
2019年3月23日、陸中山田駅に近い病院の屋上に、三陸鉄道リアス線の開通記念列車を迎える地元の人たちの歓声が響きわたりました。大空にたなびく大漁旗のもと、列車はこの街の風景を噛みしめるように走ります。東日本大震災から実に9年もの歳月が経ったハレの日の風景。この様子を僕は涙しながら撮影しました。
三陸鉄道はもともと明治の大津波の経験を元に、地震と津波に強い鉄道を建設すべく計画されました。国鉄時代には部分的に開通したものの需要が伸びないまま廃線候補になり、未開通部分の計画も中断されてしまいます。そこで沿線住民の熱い想いを受け、岩手県などが中心となり日本初の第三セクター鉄道である三陸鉄道を設立。これにより未開通部分も開通し、1984年4月1日、三陸鉄道北リアス線と南リアス線が開業しました。まさに沿線の人たちの悲願の鉄道が誕生した瞬間です。
2011年3月11日に発生した東日本大震災により、三陸鉄道の2路線とその間を結ぶJR山田線は壊滅的な被害を受けました。しかし被害が大きかったのは駅がある沿岸部の市街地が中心で、津波の影響を受けにくい築堤とトンネルを中心に建設された三陸鉄道の2路線は、ほとんどの部分が無傷だったのです。例えば津波で大きな被害を受けた北リアス線の田老駅と宮古駅を結ぶ国道は津波で壊滅的な被害を受け、移動が困難になりましたが、山を迂回するルートで建設されていた三陸鉄道の線路はほぼ無傷で、多くの被災者が線路上を歩いて移動していたといいます。それを見た三陸鉄道は信じられない決断をします。なんと
震災からわずか5日後の3月16日に久慈駅〜陸中野田駅で、そして20日には宮古駅〜田老駅で無料の復興支援列車を走らせたのです。このニュースは全国で大きく報じられ、震災に立ち向かうその姿が国民の心を捉えた結果、三陸鉄道は震災復興の象徴的な存在になりました。そしてNHKドラマ『あまちゃん』の舞台になるなど、全国からの応援と支援を受け、震災から3年後の2014年には北リアス線、南リアス線ともに全線復旧を果たしたのです。
下の写真は震災から約1カ月後の4月6日に北リアス線の田老駅で見た光景です。自衛隊によって道路は通行可能になっていましたが、一面瓦礫に覆われた沿線はまだ停電したままで、時折通る車以外に灯りは一つもありません。音もなく、潮とガソリンの入り交じった臭いだけが鼻をつくその光景は、まさに地獄絵図。その時遠くから警笛が聞こえ、車内灯を煌々と輝かせた復興支援列車が姿を現しました。それはまさに絶望が支配した暗闇を照らす、希望の灯火に思えました。僕は号泣しながら撮影しました。
三陸鉄道が震災からよみがえる過程を見つめながら強く感じたのは、沿線の人たちと三陸鉄道の絆の強さでした。自らの生活もままならぬ状況のなか、無料の復興支援列車を走らせ続けた三陸鉄道。
行方不明になった家族を探すために乗車した年配の女性は「無料じゃなくてもいいんだよ」と泣きながら運転士を抱き締めたといいます。2014年4月の南リアス線の全線復旧を撮影した時、復旧記念列車を迎えた女性が持つボードには「おめでとう」でも「ありがとう」でもなく「おかえりなさい」と書かれていました。三陸鉄道がただの乗り物ではなく、地元の一員であることがひしひしと伝わる瞬間を、僕は夢中で撮影しました。
2019年3月23日、約9年ぶりに復旧したJR山田線が三陸鉄道へ譲渡され、北リアス線・J R山田線・南リアス線の3路線が「三陸鉄道リアス線」という一つの路線に生まれ変わりました。総延長163.0 キロメートル、日本一長い第三セクター鉄道の誕生です。震災直後に崩れた線路を目の当たりにした時、あまりにも大きな絶望の前に、まさかこんな日が来るとは夢にも思いませんでした。
いま世界は大きな苦難にありますが、そんな時こそ、誰もがあきらめてしまうような状況のなかにあっても、ただただがむしゃらに前を向いて走り続け、こんな大きな奇跡を起こした三陸鉄道の姿を、思い起こしてほしいと思います。
まっすぐに、正直に、前を向いて進めば、夢はかなう。今日も三陸鉄道リアス線は、たくさんの人の夢と希望を乗せて、ただ黙々と、力強く、前に進んでいます。
〈なかいせいや〉1967年東京生まれ。鉄道の車両だけにこだわらず、鉄道に関わる全てのものを被写体として独自の視点で鉄道を撮影する。広告、雑誌写真の撮影のほか、講演やテレビ出演など幅広く活動している。著書・写真集に『1日1鉄!』『デジタル一眼レフカメラと写真の教科書』など多数。株式会社フォート・ナカイ代表。公益社団法人日本写真家協会(JPS)会員、日本鉄道写真作家協会(JRPS)会員。