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職人目線の京都行脚 土壁編Ⅱ

三洋化成ニュース No.523

職人目線の京都行脚 土壁編Ⅱ

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2020.11.12

森田一弥

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「角屋もてなしの文化美術館」の外観
(写真はいずれも公益財団法人角屋保存会の提供)

 

実は京都の町家の外壁には、純白の漆喰はほとんど使われていない。漆喰の材料となる石灰は高価だったことと、真っ白な壁はお寺や神社のもの、という京都の人々の意識もあったのかもしれない。その代わりに最も一般的に使われている土壁の仕上げは、石灰と土を混ぜ合わせた、「大津壁」と呼ばれる仕上げである。

大津壁における、石灰と土の配合の割合は、体積比にして石灰が1に対して土が4ほどであるから、石灰の量で考えると、漆喰を塗る場合の5倍の面積を大津壁では塗ることができる。そして漆喰ほど強くはないが、土よりもずっと風雨に強い壁を作ることができるのが大津壁という技術である。

大津壁という名前の由来は、実はよくわかっていない。滋賀県の大津に特に多いというわけでもなく、石灰と土を混ぜる同じような左官技術は日本各地に存在し、「はんだ」「南蛮漆喰」という呼び名もある。

大津壁の魅力は、石灰に混ぜる土の色によって生まれる多彩な色の表情である。京都でよく使われるのは、稲荷山黄土や京錆土などの暖色系の土、もしくは浅葱(あさぎ)土と呼ばれる灰緑色の寒色系の土。お寺の塀にある漆喰の五本線の背景に塗られているのが、浅葱土の大津壁である。それ以外にも、紅殻や松煙墨など顔料を混ぜて鮮やかな赤色にしたり、真っ黒な壁に仕上げたりすることもある。

庶民的な仕上げである大津壁を、徹底的に磨き上げてツルツルに光る壁面にまで仕上げた「大津磨き」は、京都の土壁の最高峰といわれる仕上げである。子どもの頃に泥だんごを固めて、その表面を磨き上げることでピカピカに光る泥だんごを作ったことのある人は多いのではないだろうか? 大津磨きは、それと同じ原理で、手の平ではなく(こて)を使って、土壁の表面を美しく仕上げる技術なのである。

 

玄関の、赤い大津磨きの土壁

 

ドロドロの土が光沢を帯びてくることに興奮してしまうのは日本の左官職人だけではないらしい。世界には大津磨きによく似た左官仕上げが、あちこちで存在している。その一つがイタリアのベネチアン・スタッコと呼ばれる仕上げで、イタリアの建築家のカルロ・スカルパの作品にもよく使われている。もう一つは、モロッコのタデラクトと呼ばれる仕上げである。現地のハマムと呼ばれる蒸し風呂や、リヤドと呼ばれる民家の内装に使われたりしている。

京都で大津磨きを見るならば、かつての花街である下京の島原にある「角屋(すみや)」がおすすめだ。江戸時代の揚屋(あげや)(今でいう料理屋・料亭)の遺構として国の重要文化財に指定され、現在は「角屋もてなしの文化美術館」として公開されている「角屋」は、部屋ごとに異なるテーマの内装と土壁が見所であり、大津磨きは人が触れやすい廊下や階段、台所の(かまど)などに使われている。

そして「角屋」は大津磨きだけでなく、京都の土壁の見本市のような建築でもあるという意味で必見の建築である。「緞子(どんす)の間」の桃山土、「網代(あじろ)の間」の大阪土、「扇の間」の青い浅葱土、「松の間」の聚楽(じゅらく)土、そして「青貝の間」では九条土と呼ばれる灰色の土壁には、なんと螺鈿(らでん)が埋め込まれている。

 

「青貝の間」の土壁には、九条土に螺鈿が
埋め込まれている

 

徹底的に磨き込まれた大津壁や、土壁に貝殻を埋め込むという奇想天外な発想の土壁は、京都の角屋でしか見ることのできない貴重な遺構である。江戸後期には、民衆の過度な消費を制限するために華やかな建築表現は御法度であったが、その「制限」の及ばない「土壁」の領域においては華美な建築表現への欲求がさまざまな形で追求された。京都町衆の豊富な財力と左官職人たちの技術の粋を尽くした舞台となったのが角屋の土壁群であった。

「水泥匠亀松之ヲ創造ス」と記された「青貝の間」の壁からは、これらを生み出した職人たちの強烈なプライドを感じずにはいられない。

 

〈もりたかずや〉
1971年愛知県生まれ。森田一弥建築設計事務所主宰。1997年、京都大学工学部建築学科修士課程修了。京都「しっくい浅原」にて左官職人として修業後、2000年、森田一弥建築工房設立。2007~2008年、バルセロナのEMBT建築事務所に在籍。2011~2012年、文化庁新進芸術家海外研修員としてバルセロナに滞在。2020年~京都府立大学准教授。共著に『京都土壁案内』など。

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