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三洋化成ニュース No.500
2017.02.26
北海道・道東に広がる釧路湿原は、さまざまな動植物たちの宝庫であり、昭和55年に日本で最初のラムサール条約登録湿地に選ばれた。その後に国立公園の指定も受け、現在に至っている。釧路湿原を代表する生き物といえば、真っ先に頭に浮かぶのがタンチョウである。漢字で書くと「丹頂」となり、赤い天辺という意味であるが、頭頂部の毛のない部分の皮膚が赤いことから、その名が付いた。日本に生息する鳥としては最大級の大きさを誇る。アイヌの人たちが湿原の神と呼ぶタンチョウは、江戸時代には北海道各地に数多くいて、関東地方に渡りもしていたとされる。しかし、明治以降の乱獲や生息地の開発などによって、だんだんと絶滅の危機に瀕していった。
大正時代にわずか十数羽ほど生き残ったタンチョウが、天然記念物となり、その後に特別天然記念物に指定され、国や自治体による保護活動が活発化するようになった。しかし道のりは険しかったようで、生き餌などをまく方法がなかなかうまく定着せず、数の回復は一向に進まなかった。だが戦後になって、畑に残ったトウモロコシを好むことがわかり、各地でそれに倣った給餌活動が行われ、徐々に数が回復するようになっていった。現在では生息数が千羽を超えるなど、順調にその数を増やしているが、絶滅危惧種には変わりなく、生息地がほぼ道東に限られるなど、昔のように広範囲で姿を見られるまでには至っていない。阿寒の鶴居村にある日本野鳥の会が運営している「鶴居・伊藤タンチョウサンクチュアリ」は最も有名かつ保護に貢献している施設であるが、元々は伊藤良孝さんという方が、自分の所有地で昭和41 年頃から給餌を始めた場所である。森林伐採などで保水能力を失った大地は、潤沢な水を湧出することができず、水量の少ない川はいとも簡単に凍ってしまい、タンチョウが冬場に餌を捕ることができる河川が激減してしまった。そのため、冬季の給餌は、現段階においてタンチョウの保護育成には欠かせないとされている。自然の環境では昆虫や小魚、カエル、ザリガニ、貝や植物も食べる。食べ物に関しては幅広い選択肢を持っているといえる。繁殖地は先にも述べたように、主に道東の湿原や湖沼などの水辺となる。早春に交尾が行われ、ヨシなどの枯れ草で作った巣に卵を2個産む。オスメス交代で抱卵をし、約32日間で孵化しヒナが生まれる。生まれてから3カ月を過ぎると幼鳥も飛べるようになり、親鳥と一緒に採餌行動をするようになる。親離れは生まれてから1年ほどだ。
冬場のタンチョウを見ていると、2羽のパートナーでよく鳴き合っているのがわかる。どうやらこれは、つがいでの親交を深めるコミュニケーションや、ほかの個体に対する縄張りの主張をしているようだ。実際にタンチョウを目の前にしてみると、非常に個性的で魅力あふれる生き物であることを感じる。ゆったりとした身のこなしや立ち居振る舞いが、どことなく優雅であり、体が大きいので迫力もある。力強いコントラストの白と黒の羽に、頭頂部の赤が絶妙なポイントとなり、繊細でありながら大胆な造形美を見せている。国旗を連想する、いかにも日本的なカラーであることも、我々日本人にとって親しみを寄せる理由ではないだろうか。性格を一概に言うことはできないが、仲間同士の争いなどが割と激しく、穏やかなものとはほど遠い。オジロワシやオオワシなどとケンカすることもあるくらい、血気盛んな面がある。北海道の大空をバックに飛ぶタンチョウの姿は、とても様になっている。道東ならではの光景だが、いつの日か全道に広がってもらいたいものだ。そしてさらなる未来には本州にも。タンチョウはアジア北東部にも生息しており、大陸のものは渡りをする。しかし北海道にすむものは昔の環境とは異なり、冬でも食料を得ることができるため、渡りをせずにその地域にとどまっている。冬は、凍らない川の中がねぐらとなり、群れになって眠っている。僕は氷点下に凍てつく真夜中に、ねぐらの川を訪れてみた。タンチョウたちは川の流れの中で、寄り添うように眠っている。 時々動いているので、熟睡しているというわけではないだろう。体を休めているという表現が近いのかもしれない。月光が染み入るような川面が黄金色に輝き、自然の神秘を垣間見たような瞬間だった。 |
タンチョウの人気はすさまじく、日本各地はもちろんのこと、海外からも観光客が押し寄せるほどだ。そしてほとんどの人が、本格的なカメラで写真撮影をしている。環境保護活動の象徴であるばかりでなく、国や自治体、地域の人々にとって重要な観光資源となっている。しかし、生息地の保護や開発を禁止する公園化が広範囲で行われているかというと、現実にはいつ開発が行われてもおかしくない状況にある。個体数が増えたといえども、砂上の楼閣となっては意味がない。これまで心血をそそぎ、タンチョウの保護に尽力してきた人々の労が無駄にならないよう、全道における生息地とそこにかかわる環境の保全が必須であることは明確だ。英名にも学名にも、しっかりと日本と刻まれたこの美しい生き物が、この先も日本の空を舞い続けることができるよう、皆で見守っていきたい。
1969年東京都生まれ。和光高等学校卒業。
エンジニアとしてコンピュータ関連会社に勤務した後、独学で写真を始める。1997年から動物写真家・田中光常氏の助手を務め、2000年からフリーでの活動を開始。世界を舞台に、野生動物の生きる姿をテーマに撮影に取り組み、雑誌、写真集、写真展などで作品を発表している。2008年日本写真協会賞新人賞受賞、2013年第1回日経ナショナル ジオグラフィック写真賞グランプリ受賞。公益社団法人日本写真家協会会員。主な著書に『動物写真家という仕事』など。