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三洋化成ニュース No.523
2020.11.16
指揮者
沼尻 竜典 〈ぬまじり りゅうすけ〉 Ryusuke Numajiri
1964年10月生まれ。びわ湖ホール芸術監督、トウキョウ・ミタカ・フィルハーモニア音楽監督、桐朋学園大学教授。1990年、第40回ブザンソン国際指揮者コンクール優勝。その後日本のみならず世界各国でオーケストラを指揮。1997年にはオペラ指揮者としての活動も開始した。作曲活動も行っており、2014年にはオペラ『竹取物語』を作曲、自らの指揮により初演した。2017年紫綬褒章。2022年から神奈川フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督に就任することが発表されている。
写真=瀧岡 健太郎
-- 中学校の合唱大会で指揮者役をさせてもらったことがあるのですが、拍子通りに指揮棒を振るので精一杯でした。本当の指揮者にはどんな役割があるのでしょうか。
演奏者全員をまとめて、音楽を作っていくことが一番大切な役割です。リハーサルは、自分のやりたい音楽の方向性を指揮の動作で示したり、演奏を止めて口頭で言ったりして進めます。指揮法というのは実は曖昧で、「三拍子は三角に」など、それぞれの拍子の基本的な振り方以外は何も決まっていないので、それぞれの指揮者がそれぞれの方法で思いを伝えます。
-- 楽譜も、指揮者の持っているものと演奏者が持っているものは違うんですよね。
そうです。指揮者の持つ総譜(スコア)には管楽器、打楽器、弦楽器の楽譜が全て書かれていますが、演奏者は自分の演奏する音だけの譜面を見ています。リハーサル中に、例えば管楽器と打楽器が同じ動きをするはずなのに、ずれていることがあります。それを指摘して修正し、本番に向けて演奏を完成させていきます。指摘されて素直に聞く人もいれば、「自分のせいではない」と意地になってしまう人もたまにいますね。そのなかで目指す理想をきちんと伝え、実現していくわけです。よく人材育成の本に「叱る時は大勢の前で叱ってはいけない」とありますが、オーケストラでは、全員の前で一人に指摘しなければならないことがほとんどなので、指揮者は嫌われやすい職業だといえます(笑)。
-- 多い時は100人を超えるオーケストラをまとめあげるのは、大変です。どのようにして人の心をつかむのでしょうか。
「まとめよう」とは特に意識せず、自然にコミュニケーションを取るようにしています。何か指摘しようと思った時に、毎回演奏を止めていてはみんなが疲れてしまうので、いくつかまとめて言うよう心がけていますが、そのくらいです。指揮者は指揮台に立てば、まな板の上の鯉のようなもので、「うまくやろう」とか「自分をかっこよく見せよう」と思っても無駄んです。覚悟を決めて「こうしたい!」という思いを伝えることが大事です。
-- 沼尻さんは海外のオーケストラでも指揮をされています。日本のオーケストラと外国のオーケストラで、コミュニケーションに違いはありますか。
日本人同士だと空気を読み合い、気を遣ってものを言いがちですが、外国人相手だと言葉の問題もあるのでストレートに言うことが多いです。しかしかえってそのほうが、はっきりしたやり取りになってコミュニケーションがスムーズに進むこともあります。あるドイツ人指揮者も「ドイツ人同士は難しい」と言っていました。
-- なるほど。練習の前にはどんな準備をされているのですか。
総譜は模様のように見えてくるまで細かく読み込み、頭に入れます。また、曲の仕組みや作品の背景を知ることも大切です。この曲が作られた頃、作曲家の身にどんなことが起こっていたのかというようなことも、演奏解釈に関係してきます。
リハーサルの時間には限りがあるので、本番までに仕上げられるよう、どの日にどんな練習をするか計画を立てることも大事です。ただ、準備しすぎて、その場で起こっていることに対応するより、家で考えてきたことばかり言うのも良くないです。
-- オペラの場合は、そこにさらに歌が加わるのですね。指揮者が歌手にも指示を出しているのですか。
そうです。歌手はコンディションに左右されやすく、予定通りにいかないことも多いです。あまり指摘しすぎると萎縮してしまって逆にうまく歌えなくなることもあるので、歌手が今どのような状態か、メンタル面も含めて読み取るようにしています。また、歌には言葉が乗っていて、意味も伝えなければならないので、テンポや息継ぎに大変気をつけます。
-- びわ湖ホールでは芸術監督を務めていらっしゃいますが、これはどのような仕事でしょうか。
劇場によって求められる役割が違いますね。びわ湖ホールではオペラの演目やコンサートのラインアップを決めるなど、プランニングが主な仕事です。一番重要なのはコミュニケーション力だと思います。演奏者だけではなく、事務局や裏方の人たちともスムーズなやり取りが求められます。ドイツで公立のオペラハウスの音楽監督を務めた時には、市長や行政の音楽担当者に会いに行って、オーケストラやオペラハウスの予算関連の要望を伝えたり、オーディションなど人事関連に関わったり、広報を手伝ったりと、さまざまな仕事をしました。要するに何でも屋です。オーケストラの代表から「ホールに隙間風が入るから何とかしてくれ」と言われたこともありますよ(笑)。
-- コンサートやオペラが開催されるまでには、いろいろな仕事があるのですね。
-- 指揮者を志望されるようになったのは、どんな理由なのでしょうか。
昔からピアノを弾くのが好きで、当初はピアニストになりたいと思っていました。学校では、友達に頼まれて当時流行っていたコマーシャルソングを弾いたり、校歌を伴奏したりしていました。ただ、ピアノは一人でコツコツと練習するのがなかなかつらいんです。
一方で、指揮者はいろいろな人とコミュニケーションしながら一つのものを作っていく仕事で、プロデュース能力も求められ、自分に向いているように感じました。子どもの頃から、コンサートや学芸会の企画をするのは大好きだったのです。
-- どのようにして、指揮者になるための経験を積んだのでしょうか。
高校時代からオペラ団の稽古場でピアノを弾いていました。この経験を通して、歌手がどんなふうに歌いたいのか、先回りして予測することを学びました。また、指揮者と歌手、演出家とのやり取りを見て、人間関係の築き方も現場で勉強しましたね。今は新型コロナの影響できちんとした形でのオペラ公演が少なくなり、若手が現場経験を積むチャンスが失われています。これは大きな問題です。
-- ほかの仕事でも同じかもしれません。ある程度キャリアのある社員なら、それまでの経験があるので、コロナ禍で働き方が変わっても、リモート会議に慣れるくらいで済みます。でも、若手社員は、現場で教わったり経験したりする機会を失ったままになってしまいます。
そうですね。何でも一人前になるまでには時間がかかります。若手指揮者が初めて指揮台に立った時は、なかなか顔を上げてオーケストラを直視することができません。
-- そうですよね。大勢の演奏者が食い入るようにこちらを見ているわけですから。
その視線を全身に浴びて、落ち着いて挨拶できることがまず第一歩ですね。若手指揮者でも、年上の演奏家に対してきちんと問題点を指摘する必要があります。オーケストラに悪く思われたくないばかりに、言いたいことを言わずに帰ってきてしまってはダメです。100回指揮台に立たないとわからないことというのがあると思います。それを一つひとつ、現場で覚えていくんです。
-- 指揮者もやはり、現場の経験が大切なのですね。
現場を数多くこなすと、なんというか「匂い」のようなものが染みついてきて、たたずまいが違ってきます。それに、経験という引き出しが増えれば増えるほど、何かあった時に余裕を持って対処できるようになります。
-- これから成長していく若手指揮者にとっては、苦しい時代です。
はい。今は国をまたいだ移動が困難なので、留学もままならなくなっています。海外からの客演指揮依頼もなかなかこないです。反対に、ほんの一握りの人たちではありますが、来日できない外国人指揮者の代役を務めて演奏機会を増やしている若手もいます。これまでの日本の演奏会の企画は、海外の指揮者や演奏家の知名度に頼りすぎているところもあったので、これが日本人の指揮者や演奏家の活躍の場を増やすきっかけになればいいと思っています。また、特にオペラは演奏者以外にも、大道具や小道具、衣装や照明など多くのスタッフが関わる総合芸術です。関わるスタッフの仕事がなくなって、若手が辞めてしまい、技術が継承されず失われてしまわないように気をつけないといけません。
-- そうですね。教育の場も大きな影響を受けているのではないでしょうか。
音楽大学でもリモート授業やリモートレッスンがいまだに多くて、友人を作る機会もありません。教師も生徒の顔が見られないとやりにくい。機械を通すと微妙な音色がわからなかったり、相手の反応が読み取りにくかったりするので、対面より何倍も疲れると言っている同僚が多いですね。密になりやすいオーケストラの授業が再開できていない大学もあります。
-- 若い音楽家に対して、アドバイスをいただけませんか。
とにかく「負けるな」と伝えたいですね。この世代に生まれてしまったのは不運かもしれないけれど、諦めないこと。これは災難だったと割り切って、何とか立ち上がるしかないですから。
-- ステイホーム中には、自宅で楽器を演奏して動画を撮影し、インターネットにアップする人が増えました。
世界の有名演奏家が、自宅で普段着で演奏している様子が見られたりして、面白かったですね。でもこの動きは一過性の流行で、時代のトレンドにはなり得ないと思います。劇場で、演奏者と同じ空気を共有しながら生の演奏を聴く醍醐味は、リモート演奏では得られません。今では録音技術も再生装置の音質もかなり良くなりましたが、それでも生演奏は淘汰されずに残っています。そう簡単に、生の音楽はなくならないと思います。
-- 3月には、びわ湖ホール制作の楽劇『神々の黄昏』公演が中止になり、無観客での上演と配信を決断されました。
公演ができなくなるかもしれないと館長から言われた時にはショックでしたが、どうなってもいいように、リハーサルはきちんと進めていました。今回の演出は映像を多用したので、スタッフの中に映像の専門家がいて、短時間で配信の環境を整えてくれました。
本番の演奏も特に違和感はなかったですね。普段のように、お客様の緊張感に舞台がグッと押されてくるような感覚はありませんでしたが、その代わり休憩のたびに、現在何万人の視聴者がいるという情報が入ってくるんです。音楽家は大勢の人に見られていると張り切る人たちなので、モチベーションを高く保ったまま演奏を終えることができました。
また、ほかの劇場の公演がほとんどストップしていたこともあり、この動きがテレビや音楽雑誌に広く取り上げられました。普段、滋賀県の活動を全国に発信するのはとても難しいのですが、これを機に、日本中の方にびわ湖ホールを知っていただくことができました。
-- ほかに同じような取り組みをした団体はないのですね。
はい。国内ではこれがほぼ、自粛前最後のオペラ公演になってしまいましたから。自粛開けからは配信するのが当たり前のような状況になっています。配信に補助金が付いたりするようにもなったので。
上演後の記者会見で私は「文化・芸術は水道の蛇口ではない。いったん止めてしまうと、次にひねっても水が出ないことがある」と話しました。これに大きな反響があり、いろいろな媒体で取り上げていただきました。新型コロナの影響で「不要不急の外出を避けてください」という呼びかけがなされ、公演が次々と中止になる中、普段は人目に触れない努力に、少しでも心を寄せてほしいという思いがありました。音楽家はプロとしての技術を獲得、維持するために膨大な時間を費やし、途方もない努力を続けています。それは「裏方」と呼ばれる舞台スタッフも一緒です。
-- その通りですね。今後の音楽活動は、どうなっていくと思われますか。
先日、新型コロナ対策を踏まえて、オーケストラの奏者同士の距離を取り、人数を減らして、実験的な演奏を行いました。最初は違和感がありましたが皆すぐに慣れました。演奏旅行をする時は毎日響き方が違うホールで演奏しますから、演奏する環境が少々変わることくらいでは、あまり大きな影響は出ません。
オペラは、新型コロナ第二波のリスクを考えると、これまで通りの企画がしばらくの間は難しいかもしれません。関わる人や予算も多く、準備期間も長いため、中止になった場合の損害額が莫大になるためです。オーケストラをステージに上げた演奏会形式など、新しい上演方法を模索しています。
-- 文化や芸術が「不要不急」か、という問題については、どうお考えでしょうか。
音楽は食べ物と違い、なくても生きていけるものです。お腹が空いている人なら、間違いなく音楽より食べ物を取るでしょう。でも僕は、ある方がおっしゃっていた「人生は不要不急のものを取り除いてしまっては、あまりにも長すぎる」という考えがストンと胸に落ちました。無駄かもしれないことをいろいろとやりながら生きていくのが人生で、音楽や演劇もその一つだと思います。火山の噴火で埋もれた、2千年前のポンペイの古代都市の遺跡にも劇場がありました。日本では新型コロナの前から、お金にならないものやすぐに結果が出ないものは不要という風潮が高まっていますが、そのような中にも大事なものがたくさんあると思います。
-- 確かにそうですね。今まさに、多くの大切なものが失われているのかもしれません。
文化や芸術は、世の中に余裕がないと育っていかない部分があります。今後、劇場もテレビなどのメディアも、確実にお金になることしかやりにくい時代になると思います。そうなると予備知識のない人も含めて幅広く楽しめるわかりやすいコンテンツしか残らず、観客も育っていかないでしょう。
観客のニーズばかりに合わせるのではなく、時には採算の取りにくい企画で演者と観客双方の感性を育み、世代を超えて伝えていくことも大事ですね。このような時代をなんとか生き延びて、前の世代から受け継いだものを、次の世代に伝えていかなければなりません。
-- 聞く側の私たちも、良いものや素晴らしいものをきちんと聞き分けられる耳を持つことが大切ですね。本日はありがとうございました。
指揮者はある意味とても孤独です。演奏者や聴衆の意見を聴く間もなしに、一瞬一瞬自ら決断していく作業の連続です。尾崎放哉の句に倣い、そんな思いを込めました。(沼尻さんより)
と き:2020年8月20日
ところ:東京・日本橋の当社東京支社にて