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三洋化成ニュース No.498
2016.10.26
しっとりとした濃い靄が辺り一帯に立ち込めるなか、東から朝の光が差し始め、幾重にも連なる山々が静かに起き始めた。兵庫県を東西に横断する六甲山地は、大阪湾を通過する南風が多量の水分を含み、年間を通して湿潤な気候である。この山々には昔から、数多くのイノシシが生息しているという話を聞いていて、一度訪れてみたいと思っていた。初めて六甲山に入ったのが2004年。それ以来たびたび訪れている。もともとは昭和の中頃、ある大学の研究チームが餌付けして観察をし始めたことがきっかけとなり、よく目にすることのできる地域となった。5月から6月にかけてはウリ坊と呼ばれる子どもたちも生まれ、山はにぎやかになる。イノシシは多産で、多い時は10頭ほどの赤ん坊を産む。経験上、このフィールドではあまり朝早くから活動せず、だいぶ日が高くなってから姿を現すことが日常となっている。
野性味満点の大人のイノシシも魅力的だが、ウリ坊のかわいらしさは特筆に値する。いつも笑っているような見た目も愛らしいのだが、何といっても愛嬌のある性格が素晴らしい。木の葉や枝をくわえたり、互いの背中に乗っかったりして遊ぶウリ坊たちのじゃれ合う姿を見ていると、自然と気持ちが和む。ウリ坊たちは母イノシシに連れられ、まとわり付いて、甘えてお乳をねだるのだが、母イノシシは機嫌が悪いと、じゃれついてくる子どもたちを蹴散らしてしまう。子どもたちが見つけた食べ物でも、すっ飛んできて鼻面ではねのけ、真っ先に自分が食べてしまったりする。そのあたりの過激な性格は、ほかの動物ではあまり見たことがなく、かなり驚いてしまった。しかし、機嫌の良い母イノシシがごろんと横になっておなかを出すと、ウリ坊たちは我先にと乳首に吸い付いて、母の気が変わらないうちに飲めるだけ飲んでしまおうと、小さな口をぎゅっとつぼめ、全身の力を使って吸い出すようにお乳を飲む。必死に生きる姿は、子どもだからこそ余計に強く訴えかけてくる。
イノシシの最大の特徴は、やはりその長くて大きな鼻だろう。まばらに毛の生えた鼻をセンサーのごとく、いつもピクピクさせている。土中のミミズや木の根を上手に探し当て、この鼻をスコップのように使って掘り出す。 鼻を中心にしてつくられた体と言ってもよいだろう。ウリ模様の施された体毛は、赤ん坊とは思えぬほどゴワゴワしており、大人になるにつれどんどん硬く、鋼の鎧をまとうかのように変化してゆく。成獣同士の縄張り争いもなかなか激しく、下あごの犬歯がぐっと伸びた牙を武器に突進して噛み付くなど、どちらかが逃げ出すまで行われる。短足でずんぐりとした体形をしているが、川や泥沼をさっそうと駆け抜け、急な斜面であっても蹄を蹴り込んでグングン登るほど力強い。山中の至る所で蹄の跡を見るので、木に登る以外はどんな場所にでも出没するようだ。山道の脇や斜面、藪の中でよく見かける耕されたような地面は、食べ物を探して鼻面で掘り返した跡だ。イノシシは硬い葉などは消化できないので、新芽や新葉、どんぐりやヤマイモ、ミミズや昆虫などを好んで食べている。 ある時、川沿いの泥の中で、ゴロゴロとのたうち回るイノシシがいた。何をしているのだろうと観察していて気が付いた。よくいわれる「ヌタ打ち」と呼ばれる行動で、体を冷やしたり、ダニや寄生虫を取ったり、匂い付けをして、自分の存在をほかのイノシシにアピールするのに役立っている。イノシシを追いかけて藪の中を駆けずり回っている僕も、あちこちダニに食い付かれてしまった。引き締まった胴体を持つイノシシは、豚の祖先でもあり、その肉はとてもおいしい。日本人は何百年もの昔から、山の鯨と呼んで、イノシシを食べてきた。 |
日本には大型の肉食獣は生息せず、地味な印象の動物がほとんどだ。イノシシもそんな動物といえるが、イノシシの場合はさらに、畑の農作物を荒らす害獣であり、猪突猛進する危険な生き物だと大抵の人は思うだろう。温暖化で雪が減り、生息地域を北上させている厄介な生き物とされている。僕自身、尻やふくらはぎを何度か噛まれている。子育てはかなりスパルタで、子どもが見つけた食べ物を母親が横取りし、さんざんせがまないと授乳はせず、気に入らないと鼻面で子どもを突き飛ばす。
ウリ坊たちはそれでも、唯一の頼みの綱である母を懸命に慕う。かなりの多産ではあるが、スパルタゆえに弱った子は置き去りにされ、秋頃には2、3頭にまで減ってしまう。しかし、もし、子どもがすべて順調に育ってしまったら、この山の生態系や植生が大きく変わり、食物も枯渇してしまうだろう。慈しむように子を育てるクマなどとは対照的だが、それぞれがその環境で生き抜くために身につけたやり方であり、まさに自然である。そんなイノシシだが、接するほどに、味わい深い粗削りな魅力に引き込まれていく。何度か顔を合わせた人間の顔を覚える能力もある。ウリ坊の愛くるしさは抜群だし、成獣の野獣らしさも一級品だ。非情に見える母親だが、たまには子どもの体を鼻面でグルーミングしたりもする。弱肉強食のファミリーに訪れる数少ない平和なひとときは、穏やかな空気に満たされている。
1969年東京都生まれ。和光高等学校卒業。
エンジニアとしてコンピュータ関連会社に勤務した後、独学で写真を始める。1997年から動物写真家・田中光常氏の助手を務め、2000年からフリーでの活動を開始。世界を舞台に、野生動物の生きる姿をテーマに撮影に取り組み、雑誌、写真集、写真展などで作品を発表している。2008年日本写真協会賞新人賞受賞、2013年第1回日経ナショナル ジオグラフィック写真賞グランプリ受賞。公益社団法人日本写真家協会会員。主な著書に『動物写真家という仕事』など。