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三洋化成ニュース No.492
2015.10.07
夜明けにはまだ程遠い早朝、幌なしジープの後部座席に乗り込みジャングルへ向けて走り出す。見上げる空には、無数の星々がくっきりときらめいている。レインウェアの下にダウンを着込んでいるが、身を切る風が容赦なく体温を奪っていく。初めて訪れたインドは抱いていたイメージと異なり、日中は耐え難いほどに暑いものの、朝晩の凍てつく寒さは想像を覆すほどであった。特にインド北部では、低温による農作物や人命への被害までが茶飯事だという。
ジャングルの入り口でいったん車を止め、いくつも列をなす茶屋の一つに入り、強烈に甘いチャイで体を温める。チャイとは砂糖とミルクをたっぷり入れた紅茶のこと。日本で飲んだら恐らく甘すぎて飲めないだろうが、ここインドではこの甘さが身にしみて心地良い。日課となった朝のチャイを飲み終え、これからベンガルタイガーの主要な生息地である、カーナ国立公園の核心部へと入っていく。
保護区の入り口に程近いところに、幹回り数メートルはあろうかという古木が立っている。そのウロにはいつも5羽のインドコキンメフクロウが並んで止まっていて、毎朝撮影に向かう僕を見送ってくれる。体が小さく子どものように見えるフクロウだが、立派な成鳥であり、複数で一つのウロに収まる珍しいフクロウである。行儀良く並んでいる時にはジープを止め、レンズを向けてしばらくシャッターを切る。何羽か欠けている時は、状況を見て足早に撮影を切り上げ、早々にベンガルタイガーの行方を追う。
撮影を始めて数日が経っていたが、ベンガルタイガーを間近で見るチャンスはほとんどなかった。密林に潜んでいることが多く、あまり開けた場所に出てこないのも要因で、遠目に見つけるも状況は思わしくなく、まともな写真が撮れない。僕は場所を変えることにし、バンダウガル国立公園へと向かった。
このエリアには、目当てのベンガルタイガーのほかに、多くの生き物も生息している。アクシスジカやハヌマンラングールはインドを代表する動物でもあり、この公園でもよく見かけることができる。特にアクシスジカはベンガルタイガーの主要な獲物でもあり、生態系の重責を担っていると言っても過言ではない。
共同生活を営むインドコキンメフクロウ
水辺で水を飲んだ後、勢いよくジャンプした |
ベンガルタイガーを求めながら期待はずれの連日だが、焦燥感にさいなまれながらも根気よく探し求めていくと、ようやくわずかなシャッターチャンスが訪れた。力強い縞模様は藪に入ってしまうと周囲に溶け込んで、まるでわからなくなってしまう。藪から藪へ移動する際に、藪の切れ目から姿を現すわずかな瞬間を、ジープの荷台から三脚に付けた400ミリの望遠レンズで狙った。400ミリレンズでアップを撮るには、被写体にかなり近づかなければならず、フットワークを必要とする。しかし、単焦点でフレーミングする切れ味の鋭い割り切りは、写真の大きな醍醐味だ。
森の中の林道でジープを止めていた時、突然藪の中から若いベンガルタイガーが姿を現した。慌てた僕は、望遠レンズを三脚に据え付けるタイミングも失い、重い機材を手持ちで支えながら、その若きトラにピントを合わせ続けた。距離にして6〜7メートルほどだろうか。ジープの上とはいえ、ドアも屋根もないむき出しの荷台に乗りながら、野生のトラのすぐ間近にいるのは極度の緊張を強いられる。しかし、やっと巡り合えた格好のチャンスを無駄にすることはできない。いつ飛びかかってくるかもしれない目前の若いベンガルタイガーをファインダーに捉えつつ、その優雅な美しさに魂の高ぶりを抑えきれなかった。獲物と思うのか、それとも邪魔な障がい物と思うのか、僕をジッと見つめるその瞳に鋭利な光が宿る。密林で孤高に生きるベンガルタイガー。いまだ見ぬハンティングでは、強烈にアグレッシブであることは想像に難くない。だが目の前のそれは、瞳の奥に本能の牙をのぞかせながら、しなやかでひっそりとした静けささえ漂うたたずまいをみせる。10年から20年以上前は生息数も比較的多く、目にする機会にも恵まれていたらしいが、商業目的の密猟や、人々の生活圏の拡大による生息地の減少などにより、現在はその数を減らし続けている。哺乳類最強のハンターであるトラが、人々の住む村のそばで悠々と暮らしている事実はなかなか受け入れ難いものがある。事実、近隣の村ではことあるごとに、村人がトラに襲われている。それは特別珍しいことではなく、インドでは昔から頻繁に起こっている出来事だ。
ある時、水辺にたたずむ大きな雄を見つけた。どうやら水を飲んでいるらしい。木立に阻まれてなかなか良いアングルが取れず、こまめな移動を繰り返してようやく抜けの良い隙間を見つけてジープを止めた。と、その瞬間、大きな雄が数歩歩いたかと思うと、突然ジャンプして水たまりを飛び越えた。あっという間の出来事だった。そのしなやかな肢体からは力強さがあふれ出し、密林にすむ孤高のハンターの一面を垣間見た思いだった。
生身では到底近づくことができない、しかし、こんなにも美しい生き物が生息しているのは、その土地の人々の理解と努力がなせる技だろう。インドだけではなく、世界に対してこの生きる至宝を守ることが求められており、今は各国が手を取り合い、保護に邁進している。
1969年東京都生まれ。和光高等学校卒業。
エンジニアとしてコンピュータ関連会社に勤務した後、独学で写真を始める。1997年から動物写真家・田中光常氏の助手を務め、2000年からフリーでの活動を開始。世界を舞台に、野生動物の生きる姿をテーマに撮影に取り組み、雑誌、写真集、写真展などで作品を発表している。2008年日本写真協会賞新人賞受賞、2013年第1回日経ナショナル ジオグラフィック写真賞グランプリ受賞。公益社団法人日本写真家協会会員。主な著書に『動物写真家という仕事』など。