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三洋化成ニュース No.505
2017.12.07
氷河期の生き残りと言われる生き物がいる。日本では北海道の高地だけにすむエゾナキウサギだ。3属4種のウサギが日本には生息しており、ノウサギ属のニホンノウサギとエゾユキウサギ、アマミノクロウサギ属のアマミノクロウサギ、そしてナキウサギ属のエゾナキウサギだ。エゾナキウサギは、ニホンノウサギやエゾユキウサギといった、いかにもウサギらしいウサギとは少々異なる姿形をしている。耳は短く、四肢もまた短い。一見ネズミのように見えるが名前が示す通りれっきとしたウサギの仲間で、黒々としたつぶらな瞳や、植物を食べるまん丸な姿はとても可愛らしい。
しかし、その小さな体の中には、凍てつく冬を乗り越える、強靭な生命力を秘めている。マンモスのような巨大な動物が絶滅してしまった氷河期だが、どうしてこんなに小さくて可愛らしい動物が生き延びることができたのだろう。エゾナキウサギは見た目では判断できない、複雑な生命の仕組みを解き明かしてくれるのかもしれない。
いったいどんな生き物なのかを知りたくて、僕はある年の秋に北海道を訪れた。北海道の中央部には標高2291メートルの旭岳を頂点とし、山々の連なる大雪山系が広がる。山上には岩が積み重なったガレ場と呼ばれる場所があり、崩壊した崖、溶岩流、氷河が削って運んだ堆石などによって形成される。ガレ場は、冷涼な土地でしか生きられないエゾナキウサギの貴重なすみかとなっている。標高1000メートルほどの中腹にあるガレ場には、北の国や高山でよく嗅ぐ植物の甘い香りが漂っている。
辺りで耳を澄ますと、キチーキチー、ピュルルルッ、という金属音のような鳴き声が聞こえてくる。エゾナキウサギの声だ。初めはどこにいるのか姿が見えなかったが、しばらくして岩の隙間から顔を出しているのを見つけることができた。人の手のひらに乗るほど小さいので、慣れないうちは見つけにくいのだが、目を凝らして辺りを見ているうちに、次第に見つけるのが上手になってくる。
この地域は冬になると10メートルくらいの雪が積もる。冬眠をしないエゾナキウサギは春から秋にかけて、ガレ場の隙間からひょこっと現れては、エゾリンドウやイワブクロ、ゴゼンタチバナといった高山植物の葉や茎や花をかじったり、それらをせっせと集めて巣穴に持ち帰り、長い冬ごもりの保存食にしたりする。時に、岩の上でジッとたたずみ、まるで考え事にふけっているかのような振る舞いをすることもある。それは日光浴か、もしくは捕食者や侵入者を警戒する行動である。
可愛らしいので、ついアップで撮ってしまうのだが、そればかりだと飽きてしまうし、作品の広がりもなくなる。それにこの生息地の景観が素晴らしいので、この景色を写さないのは非常にもったいない。そこで思い切ってエゾナキウサギをギリギリまで小さく、できるだけ景色を大きく入れるようにフレーミングしてみる。エゾナキウサギをカメラで追いかけるのではなく、あらかじめ現れる場所を想定し、カメラをセットしておくのだ。もちろんエゾナキウサギがどこに出てくるかはわからないが、時間をかけて観察していると、時々同じ場所に現れることに気付く。そのような場所を見つけて、構図を決める。カメラをセットしたら、あとはエゾナキウサギが現れるのを待つだけだ。雄大な景色の中に身を置き、期待と不安を抱きながら待つ時間は、なかなか濃厚だ。そして突然エゾナキウサギは現れ、僕は瞬時にレリーズを切る。
活発に動き回るのは朝夕で、日中は岩の隙間でのんびりしていることが多いようだ。雨や風の強い日は、あまり姿を現さない。天敵は主にイタチ科のオコジョやイイズナで、岩の隙間にまで入り込んで追いかけてくるが、隙間は狭く、複雑に入り組んでいるために、多くの場合は逃げ切ることができる。
名前の由来にもなっているようによく鳴くのだが、それは主にコミュニケーションのためと考えられている。危険な状況で声を上げても、ほかの個体が逃げないことから、警戒のために鳴いているわけではなさそうだ。大きかったり、か細かったりするのだが、その声はよく通り、ガレ場に響き渡る。
僕自身、エゾナキウサギのどこに魅力を感じるのだろうと考えてみると、可愛らしい見た目でありながら、この過酷な環境のなかでたくましく生きる姿のギャップに引かれる部分が大きい。エゾナキウサギを通し、自然の神秘を目の当たりにするのだ。気候変動で気温が上昇すれば、エゾナキウサギの生息地がさらに狭められることは確実である。現在でさえ、北海道のわずかな高地にしか生息していないのだから、この先の未来は安泰とは言えないだろう。絶滅の危機に瀕している生き物の象徴として、ホッキョクグマが世界的に取り上げられている。しかしエゾナキウサギもまた同様に危機に瀕しているのだ。この貴重な氷河期の生き残りが、これからも生存できるよう、そして僕たちと共生できるよう、行動し続けなければならない。
山の上は気温が低く風も冷たいが、秋晴れの日差しは心地良い。ボサボサだった夏毛から、ふっくらとした冬毛へと変わりつつあるエゾナキウサギ。もうしばらくすると雪がちらつき始める。そして何カ月にもわたる極寒の冬を、蓄えた植物を食べながら、暖かな雪の下で過ごすのだ。
1969年東京都生まれ。和光高等学校卒業。
エンジニアとしてコンピュータ関連会社に勤務した後、独学で写真を始める。1997年から動物写真家・田中光常氏の助手を務め、2000年からフリーでの活動を開始。世界を舞台に、野生動物の生きる姿をテーマに撮影に取り組み、雑誌、写真集、写真展などで作品を発表している。2008年日本写真協会賞新人賞受賞、2013年第1回日経ナショナル ジオグラフィック写真賞グランプリ受賞。公益社団法人日本写真家協会会員。主な著書に『動物写真家という仕事』など。