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京都の坂 清水坂 その二

三洋化成ニュース No.528

京都の坂 清水坂 その二

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2021.09.14

中西 宏次

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桃山時代を代表する画家・狩野永徳による「上杉本洛中洛外図屏風」(国宝)では祇園祭の様子が描かれている
(写真提供および所蔵:米沢市上杉博物館)

かつての清水坂は、今の松原通大和大路付近が中心でした。この辺りは今「弓矢町」という町名になっています。これは昔清水坂にいた「坂の者」が「つるめそ」とも呼ばれ、づるの製造とその行商をしていたことに由来します。その呼び名は、弓弦を売り歩く時の「弦を召そう」との売り声からきています。彼らにはまた「いぬにん」という別の呼称もありました。祇園社(今の八坂神社)に属する寄人よりうどとして、境内を清浄に保つ清掃などを受け持っていたのです。彼らの職能・職責であった「死穢の取り扱い」に関連する仕事といえます。

祇園社の祭礼・祇園祭の時、彼らは輿こしたびしょぎょする行列の先頭に立って先導しました。犬神人のなかから毎年6人が選ばれ、柿色の衣に白覆面姿で手には長い棒を持っていたので「棒の者」と呼ばれました。神幸列・還幸列の先頭を歩き沿道を「きよめる」役割をしていたといえます。

 

上図で鴨川の橋を渡る神輿行列の先頭に描かれる6人の「棒の者」

 

この伝統は長く続きました。近世に彼らが弓弦の職人身分になってからは、装束も明るい色のはんてんのような上衣に頭巾姿に変わり、さらには甲冑かっちゅう姿になり馬上で行列を先導するようになりました。これは犬神人がいなくなった後の近・現代にも弓矢町の住民によって受け継がれ、1974年まで続けられました。しかし、毎年盛夏に甲冑をまとい、馬を調達して行列に参加する負担は一町内にとっては過重なものであり、ついに中断せざるを得なくなったのです。私は、若い頃甲冑行列に参加したことがある住人から話を聞いたことがありますが、甲冑を身につけるだけで汗が噴き出し、大変だったということでした。

 

祇園祭の神幸列を先導する弓矢町民
(写真提供:立命館大学アート・リサーチセンター)

 

その後は毎年祇園祭に合わせて町内で甲冑展示が行われるようになり、現在に至っています。1931年に弓矢町として木造2階建ての町会所を取得し「きゅうせんかく」と名付けてその土蔵を甲冑の保管場所としています。祇園祭が近付くと、町内の人たちが弓箭閣に集合し、土蔵から甲冑を取り出して虫干しを兼ねて路上に並べ、順次展示場所に運んでいきます。近年はこの作業に大学生など助っ人も参加していますが、彼らにとってもこうした地域の伝統行事に触れることは貴重な体験だと思います。展示場所は、町内有志が自宅玄関や店先・ショーウィンドーなどを提供されるのです。ただ、2020・2021年はコロナ禍のため祇園祭自体が規模縮小されたこともあり、鎧出しは行われたものの、展示は弓箭閣でのみ行われました。来年度の復活が待たれます。

 

祇園祭に合わせて行われる弓矢町武具飾り
(写真提供:京都風光)

 

この弓矢町での甲冑展示は「もう一つの祇園祭」といえます。千年以上の伝統を持つ祇園祭は、その全容を把握するのが極めて難しいほど多彩なかおを持っていますが、それだけ多くの人たちに支えられ、変容しながら今日に伝わっているのです。弓矢町ではかつての住人=犬神人・つるめそはいなくなりましたが、この地に住んだのを縁として、住民の皆さんが甲冑展示を続けておられるのは、祇園祭の多様性を今に引き継ぐ取り組みだといえるでしょう。そしてそれは「坂」の歴史・伝統を後世に伝える営みでもあると思うのです。

 

 

〈なかにし ひろつぐ〉
1946年京都西陣に生まれ、育つ。1971~2007年大阪府立高校教員。2009~2020年京都精華大学人文学部教員。『学校のモノ語り』(東方出版)など学校文化に関する共著書多数。一方、自分と京都との関わりを巡って考察。著書に『聚楽第・梅雨の井物語』(阿吽社)、『戦争のなかの京都』(岩波書店)、『京都の坂』(明石書店)がある。現在、京都民衆史研究所代表。

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