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京都の坂 長坂

三洋化成ニュース No.529

京都の坂 長坂

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2021.11.16

中西 宏次

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千束から京見峠に向かう長坂街道

長坂は「西の鯖街道」とも呼ばれる長坂街道の、京都盆地への出入り口にある坂です。長坂は文字通り長い坂であり、この広義の長坂のなかにまたいくつもの「坂」が入れ子状態になっています。それらのなかには、歴史上人為的に造られた「坂」=さかいもあります。その一つが長坂口です。1591年、豊臣秀吉は京の都を取り囲む全長22.5キロメートルの土塁・御土居を築造させました。これは秀吉の京都大改造計画の一環であり、きんじゅらくだいを中核とする「都城」を囲む城壁という意味も持たせていました。その御土居と長坂街道がクロスし、開口されていた地点が御土居長坂口です。ここは近世を通じて京都への出入り口の一つ・洛中と洛外の境界として重要な意味を持っていました。高度成長期にこの付近に住宅地化の波が押し寄せた時、御土居は乱暴な破壊にさらされその多くが壊されてしまいましたが、長坂口の西にあたる北西隅コーナー部などは幸いにして破壊を免れ、今は史跡として大切に保存されています。

 

長坂口の西に残る御土居

 

本阿弥光悦は、江戸時代初めに御土居長坂口を北へ越えた辺りに大御所・徳川家康から広大な土地を拝領し、親族・知己を呼び集めて「芸術村」を作りました。光悦の本業は刀剣の研磨・鑑定ですが、書画工芸などに幅広い才能を発揮した当代第一級の芸術家でした。当時この辺りは追い剝ぎが出るような寂しい場所で、家康が光悦にこの地を与えたのは治安改善の目的もあったのでは、といわれています。しかしそんな土地だっただけに、光悦たちは自然に囲まれ伸びやかな芸術活動ができたのかもしれません。その活動は、後に「りん」として花開きました。彼は晩年をここで過ごし、その邸跡にあたる光悦寺に墓所があります。境内には茶室が七つも点在し、その一つ・大虚庵を取り巻く光悦垣がなだらかなカーブを描いている辺りは、11月になると錦のような紅葉に彩られます。

 

紅葉に彩られた光悦垣(写真提供:光悦寺)

 

光悦寺前から長坂街道をもう少し西へ進んでみましょう。しばらく行くと、道路は突然急坂になって下っていきます。この坂は、街道が鷹ヶ峰台地の末端を上り下りする坂です。坂を下りきった所にある小さな集落がせんぞくです。ここから長坂街道は京見峠に向かって急登していきますが、この坂が昔から「長坂(越え)」と呼ばれていて、長坂街道の名の由来といわれます。若狭や丹波から荷を運んできた人たちは、長坂越えを下りて千束まで来ると京まではあと少し。鷹ヶ峰台地への坂を上る前に一息つく場所でした。また帰路には、これから先の長い山道や難所を前に、ここで少憩をとって気を引き締めたのではないでしょうか。千束には米屋や酒屋、旅館などもあり、坂下の「境」としてにぎわっていました。またここでまきを買って帰る人も多く「千束」という地名はここからきたともいわれます。しかし1902年、周山街道(国道162号線)が開通した後に長坂街道を通る荷は急減し、今は昔の面影を残しつつひっそりと静まっています。

 

鷹ヶ峰台地と千束を結ぶ旧道のヘアピンカーブ

 

 

 

〈なかにし ひろつぐ〉
1946年京都西陣に生まれ、育つ。1971~2007年大阪府立高校教員。2009~2020年京都精華大学人文学部教員。『学校のモノ語り』(東方出版)など学校文化に関する共著書多数。一方、自分と京都との関わりを巡って考察。著書に『聚楽第・梅雨の井物語』(阿吽社)、『戦争のなかの京都』(岩波書店)、『京都の坂』(明石書店)がある。現在、京都民衆史研究所代表。

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