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三洋化成ニュース No.531
2022.03.17
嵐山がなぜ「京都の坂」なのかと言えば、そこが京都とその外部との境界(サカイ→サカ)だからです。このことは保津川下りの遊船に乗ればよくわかります。亀岡から保津峡の激流を下ってきて、ようやく流れが穏やかになり景色が開けたと思ったら、そこが嵐山です。終着点が京都でも最大級の観光地・嵐山であるという点も保津川下り人気の一因だと思うのですが、京都の街中とはまた違う山川の景観美という要素を持っているのが嵐山の強みであり、それは「境界の魅力」と言えるでしょう。
この嵐山の地を最初に開発したのは、朝鮮からの渡来人である秦氏の人たちです。それは平安京ができるかなり前、5〜6世紀頃にさかのぼります。秦氏は、土木や治・利水、養蚕、織物などの当時の先端技術を日本にもたらしましたが、この地(葛野)に入った人たちは保津川(別名・大堰川、桂川)に井堰を築き、せき上げた水を水路で導いて流域を開発しました。その井堰は今も渡月橋の少し上流地点に「一ノ井堰」という名で洛西用水路(右岸)や西高瀬川(左岸)などの取水口として受け継がれています。そこから右岸を流下する一ノ井川は、1.5キロメートルほど南で秦氏の氏神であった松尾大社の境内を流れますが、そこは今も清浄な空間として保たれ、秦氏の人たちが先祖の功績を大切に顕彰してきたことがわかります。
秦氏が早くから葛野の地を開発していたことは、桓武天皇が京都盆地に遷都する大きな誘因になりました。しかし、794年10月に桓武天皇が移徙したのは、京都盆地中央部に造営された平安京の中核・平安宮で、その大極殿跡は今の千本丸太町付近です。そこは葛野の嵐山からは6キロメートルほど東に離れています。平安京ができるまでは嵐山・嵯峨野は葛野の中心地だったのですが、遷都が終わればそこは都の西の郊外で、貴族たちがその地の景勝をめでる別業(別荘)地になりました。渡月橋北詰めの近くから平安初期の遺物を伴う庭園跡が出土していますが、これは桓武天皇の別業・大堰の邸跡ではないかと推測されています。
その後、室町時代に足利尊氏が後醍醐天皇を弔うため天龍寺を造営したのをきっかけに、嵐山には寺院や貴族の館が次々と建てられました。町家街もでき、南北の中心道路は「朱雀大路」と名付けられるなど都市景観を呈していました。しかし、そこは自立した都市ではなく京の都に付随する「衛星都市」でありました。
南北朝期からの戦乱でこの地は一旦荒廃しましたが、近世になると京都の重要な河港として復活します。それは、嵐山で生まれ育った角倉了以が、難工事に挑み保津峡を開削して丹波からの舟運を開通させたからです。その舟運路は今、保津川下りのルートとなり、嵐山になくてはならない観光資源になっています。
近代以降、京都鉄道嵯峨駅(現JR嵯峨嵐山駅・明治30年)、京福電車嵐山駅(明治43年)、新京阪鉄道(現阪急電鉄)嵐山駅(昭和3年)、トロッコ嵯峨駅、嵐山駅(平成3年)と次々に鉄道駅が造られ、多様なアプローチと回遊が可能になったことにより、嵐山は京都を代表する観光地に押し上げられました。
嵐山は、他の京都の坂=境界と同じように、時代によってその境界性の内実を大きく変容させてきたのです。
〈なかにし ひろつぐ〉
1946年京都西陣に生まれ、育つ。1971~2007年大阪府立高校教員。2009~2020年京都精華大学人文学部教員。『学校のモノ語り』(東方出版)など学校文化に関する共著書多数。一方、自分と京都との関わりを巡って考察。著書に『聚楽第・梅雨の井物語』(阿吽社)、『戦争のなかの京都』(岩波書店)、『京都の坂』(明石書店)がある。現在、京都民衆史研究所代表。