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中国・紅大地を飛ぶ
2019.10.01
「紅大地(べにだいち)は消失するかもしれない。空から記録するのはどうだろうか?」。
中国に精通する映像ディレクター・永野浩史さん(三六歳)。彼と出会ったのは、タクラマカン砂漠から戻ってすぐのことだった。
中国雲南省には、「紅大地」と呼ばれる真っ赤な大地が広がる。強烈な色彩を見に多くの観光客が訪れ、村は賑わう。しかし、その大地は近い将来、崩れ去るかもしれないという。
躍進する中国の今の姿を、もっと知りたい。思いは通じ、我々は雲南省紅大地へと旅立った。二〇〇六年五月のことだった。
雲南省の省都・昆明(こんめい)で飛行機を降り、車で紅大地へと向かう。直線距離は一二〇キロほどだが、実際の走行距離は三倍ちかくあったのではないか。幾重にも重なる山々を縫うように走る。標高は二六〇〇メートルまで上がった。寒い。我々を乗せた車は、霧の立ちこめる、深い山あいで止まった。
目の前には、紅大地が広がっていた。とにかく赤い。土を手に取ると、ジットリとした粘土のようだった。あたりを見渡すと木々はなく、目につく空間は耕し尽くされていた。
それにしても、土地が赤い。この大地は五〇〇〇万年前、ヒマラヤの造山運動に連動して生まれたという。独特の赤い土は、地中の鉄分が酸化してできたからだ。
その紅大地に乗っかるように、典型的な農村の暮らしが展開している。山肌に刻まれた、畑へと延びる土の道。その上を鍬を持つ農夫や牛車が行く。畑にはジャガイモや麦、トウモロコシなどが栽培されている。真っ赤な土と作物が織りなす景観は、刻々と変わる光の加減で変化した。さらに、季節ごとに成長する作物が、さまざまな色で紅大地を彩るという。それは一年を通じて、紅大地にパッチワークのような、唯一無二の絶景を生み出していた。
農道を歩く地元の少年。彼はカンフーのマネをして、こちらの気をひこうとする。応戦すると、すぐに友だちになれた。
一緒に土の道を歩いた。子どもらが指さす先には、ガイドの案内に率いられた、たくさんの観光客がいた。丘の際に三脚を立て、高価なカメラで紅大地を撮っている。この数年でとても増えた、と少年は教えてくれた。
観光客は、中国全土からやって来るという。撮った作品を見せてもらった。見るやいなや、僕は唸っていた。赤い段々畑をアップで撮った写真は油絵のような色彩を放ち、「異境」を想像させた。そして、紅大地に広がる黄金色の麦畑と、青い空。そのコントラストは、この世の風景とはとうてい思えない。
しかし僕は心の片隅で、どこか不自然さを感じて、一歩退いた気持ちで眺めていた。。紅大地は絶景というよりも、乱開発の結果なのではないか……。観光客たちの撮る写真には、いかにも「芸術的に」紅大地が写し撮られている。こんな写真が出回ったら、人々は紅大地に続々とやってくるに違いない。「好(ハオ)、好(ハオ)!」と写真を褒めた。どうやら通じたようだった。「この景観は中国で一番さ」。中年の写真愛好家の男性は、うれしそうに話してくれた。
こざっぱりとしたブロック造りの建物が、我々の宿舎だった。目の前には紅大地が広がり、眺望は最高だった。宿のオーナーは、先ほど観光客を案内していた、まさにその人だ。張開権(ちょうかいけん)さん(四七歳)。観光客を相手に、ガイドと宿舎を提供している。
世間話を通じて、いろいろと尋ねてみた。すると、なぜガイドをしているかを話してくれた。五年前に、紅大地を撮影している人を見かけた。このとき、これは商売になると直感し、観光業に転身したという。大当たりして、今では年収が九万元(一三五万円)。農民時代の三〇倍にも跳ね上がった。張さんが、この観光ブームの仕掛け人だったのだ。
緩やかに下る農道を走り、離陸。山間の乱流にもまれ、翼は揺れに揺れた。翼が安定し、意識を地表へ向ける。すると、眼下に広がる山、そしてその先の山まで、大地は紅い地表を見せていた。山肌という山肌は削られ、耕され、手つかずの場所は谷間だけだった。耕された山は、その姿をひと回り小さく変えてしまったのではないか。人間はここまでするのか。息を飲んでいた。
さらに翼を走らせた。谷を抜け、山を越えても、同様に紅い大地は続いた。山頂まで削られた山には、近寄ることができなかった。まるで要塞のように見え、恐ろしくて足が震えていた。今まで見てきた世界とは次元の違う、巨大なアンバランスを感じていたのだ。みごとなパッチワーク、と言いたい気持ちと裏腹に、どうしてここまで耕すのかと、素朴な疑問が生じていた。
着陸。そして、地上で待っていた永野さんといろいろ話をする。「山肌の半分が緑で覆われた山を見かけた。紅い大地に緑の山。ちょっと異様だけど、あれは何なのだろう?」。すると永野さんは、村の長老、張東祥(ちょうとうしょう)さん(六八歳)から聞いた話を聞かせてくれた。ここは昔、緑の山だった。猪や野鳥など動物も多く、自然の恵みが暮らしを豊かにしてくれた。しかし、伐採で森はなくなった……この紅大地に暮らし続けてきた張さんは、とつとつと話してくれたという。
話は、およそ五〇年前に遡る。当時、中国政府は、経済成長を合い言葉に、鉄の増産を掲げた。そして、全国の農村部に溶鉱炉の増設を進めた。この紅大地にも溶鉱炉が建設され、燃料として森の伐採が進んだ。そして、一気に森が消失した。森を切り尽くした人々には、仕事がなくなった。
急増する人口を養うために、人々は裸になった森林跡地を耕し、畑に生きた。つまりこの紅大地は、五〇年前の乱開発から生まれたものだったのだ。皮肉にも現在、その大地が観光名所として、富を生み出している。
「では、あの緑で覆われた山は?」。九〇年代後半、この紅大地では土石流による被害が急増した。木々の生えない土地は、結束力がない。そこに雨が降れば、雨水は大地を削り取るように流れる。農地流失が深刻化していた。そして一部の人々は、観光名所として光を浴びはじめた大地に、植林を開始した。その跡だという。 話は複雑だった。その植林は、五年後に中止されたという。村民は土地の流出よりも、観光収入の道を選んだのだ。そして、現在。一晩の雨で一軒の家が崩れ落ちるほど、土壌が緩んだ場所も出てきている。紅大地の流出を食い止めるには、大地を支える植林が不可欠だった。しかし、植林によって農業は継続できるが、紅大地の絶景は崩れる。植林は、村の希望の光を断つことを意味していた。紅大地の民は、大きな決断を迫られていた。 僕は、数年後には消失するかもしれない絶景の中を、ゆっくりと飛んでいった。同時に、紅大地に緑の植林がなされてもよいのではないか、とも考えてみた。緑に縁取られた紅大地。農業と観光の共存。その道は、きっと選択できるはずだ。 一〇〇〇年後の景観を想像することは難しい。しかし、一〇〇年先の景観までなら、具体的に思い描くことができる。言わば、孫の世代だ。それをすることは、今を生きる我々の責任の範囲ではないだろうか。他人事ではない。 |
(協力 テレビ朝日 「素敵な宇宙船地球号」)
1974年東京都生まれ。京都府木津川市在住。獨協大学卒。学生時代は探検部所属。
主な活動に「マッケンジー河漕飛行」「天空の旅人 紅葉列島を飛ぶ」などがあり、旅とモーターパラグライダーによる空撮を軸に作家活動を行っている。2014年12月には10年間の活動をまとめたDVD『天空の旅人シリーズ』3作を同時リリース。販売はwww.tagoweb.netにて。