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私の京都(3) 大文字山

三洋化成ニュース No.537

私の京都(3) 大文字山

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2023.03.16

永田 和宏

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大文字山。毎年8月16日には巨大な「大」の字に火が灯される

京都に生活する者にとって、また京都で育った者にとって、日常で誰もが目にしてきたものは、比叡山であり、だいもんやまだということになるだろう。大文字山は正式には如意ヶ嶽というべきだろうが、京都人は誰もが大文字山と呼んでいる。

私の歌集に『百万遍界隈』というものがあるが、百万遍界隈は長年私が根城にしてきた地域である。端的に言えば京都大学に接する場所。今出川通と東大路通の角は百万遍交差点と呼ばれるが、我が生涯のうち四十数年を、この辺りを中心に動き回っていたことになる。

すぐ近くに百萬遍知恩寺がある。鎌倉時代末、1331年頃の後醍醐天皇の御代に、天然痘が大流行した。この寺で、百万遍念仏を行って見事これを鎮め、天皇より百萬遍の寺号を賜ったのだという。

百万遍から大文字山まではすぐの距離にある。学生時代の私たちは、吉田山でもよく飲んだが、勢いに任せて大文字山まで登り、そこで酒を飲みつつ夜を明かすなどということも一再ならずあった。銀閣寺の横の山道を通って登れば、30分ほどで大文字の大の中心まで登れたのではなかっただろうか。

町で飲んだ勢いで、数人の友人と大文字山に登ったのは夏の終わり、随分寒かったのを覚えている。飲み明かしつつ、次第に明るくなっていく京都の街を見下ろしているのは、誠にぜいたく、かつ不思議な気分でもあった。

如意ヶ嶽をなぜ大文字山と呼ぶのかは、もちろん山肌に「大」の1字が大きく刻まれ、五山の送り火の中心的存在だからである。

 

火のともるまへの華やぎ京の町

大文字の大くきやかに見ゆ

        永田 和宏

この歌を作ったのは、実は3年ほど前。令和の大嘗祭だいじょうさいのために献詠したものであった。

宮中では毎年11月に、新穀に感謝し豊作を祈る行事として、天皇陛下によってにいなめさいが行われている。これは年中行事だが、天皇の代替わりの年には、それが大嘗祭として執り行われる。令和の大嘗祭は、2019年11月に行われた。

大嘗祭で使う米を収穫する地方は、今なお亀甲占いによって決めるのだというから驚く。令和の大嘗祭では東の地方に栃木県が、西の地方に京都府が選ばれた。大嘗祭では両地方にちなんだ歌が献詠されるが、私は今回、主基地方、すなわち京都の歌を献ずるよう求められた。ちょっと荷が重いが、数十年に1度の儀式に歌人として携われるのはうれしいことでもある。

歌はそれぞれ10首を献じることになる。儀式で奏せられるいねつきうたと風俗歌、その後の宴(大饗)で神楽歌として奏せられる風俗歌舞4首、それに四季の屏風に日本画とともに書き込まれる屏風歌4首である。

令和の大嘗祭で献詠された屏風歌

 

主基地方のびょうには、春は「醍醐寺の桜」、夏は「大文字山」、秋は「渡月橋の紅葉」そして冬は「天橋立の雪景」が指定され、画も歌もそれを描き、うたうことになる。その屏風歌の一つが先に挙げた大文字の歌なのである。

京都人にとって、8月16日、大文字焼き、すなわち五山の送り火の日は、どこかそわそわと落ち着かない。まだ火のともる前から、鴨川堤などには人々が集まり始め、今か今かと町全体がどこか華やいだ気分に包まれている。私の歌は、そんな火のともる前の気分を詠んでいる。

我が家は京都の中でも何度も引っ越しをしてきたが、北区の上賀茂近くにいた頃は船形が、右京区の御室時代は、左大文字や鳥居形が、左京に引っ越してからは妙法などがよく見えた。しかし、やはり何と言っても五山の送り火の中心は大文字山の大である。大の字に火が燃え始めてからほぼ10分おきに順々に火がともされ、おおよそ1時間ほどで送り火の行事は終わることになる。あっけないといえば、誠にあっけない時間ではあるが、京都人にとっては、1年に1度の何にも代え難い時間でもあろう。

 

永田 和宏〈ながた かずひろ〉

1947年滋賀県生まれ。歌人・細胞生物学者。京都大学理学部物理学科卒業。京大再生医科学研究所教授などを経て、2020年よりJT生命誌研究館館長。日本細胞生物学会元会長、京大名誉教授、京都産業大名誉教授。歌人として宮中歌会始詠進歌選者、朝日歌壇選者を務める。「塔」短歌会前主宰。読売文学賞、迢空賞など受賞多数。2009年、紫綬褒章受章。歌人・河野裕子と1972年に結婚し、2010年に亡くなるまで38年間連れ添った。著書に『知の体力』『置行堀』『歌に私は泣くだらう―妻・河野裕子 闘病の十年』など多数。

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