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三洋化成ニュース No.538
2023.06.05
山の天気予報を専門に行う、日本で最初の山岳気象予報士、猪熊隆之さん。山や天候の知識を踏まえ、一般の登山者はもとより人気テレビ番組で芸能人や撮影クルーの登山をサポートするなど、山岳気象の第一人者として活動されています。登山者の命を守る山岳気象予報の難しさややりがい、登山の魅力などについて、お聞きしました。
-- 山岳気象予報士とはどんなお仕事ですか?
天気予報は、空気がどのように変化していくかを予想して出します。私たちはこれを「空気のふるまい」と言っています。空気は基本的には決まった法則で変化し、高い場所と低い場所では空気の状態が異なります。ですから、実際の現場の地形を計算式に当てはめて、高い場所と低い場所の間がどうなっているか、天気図やコンピューターの計算結果なども参考にしながら天気を予報しています。
-- 山の天気は変わりやすいと言われますね。山の天気予報の難しさはどんなところにあるのでしょうか。
今の天気予報はほぼ自動化されていて、コンピューターが計算したデータを天気に変換しています。しかし、山ではどうしても精度が下がってしまいます。
コンピューターは、広い空間を20キロ単位などに分割してそのマス目ごとに計算しています。しかし、山や谷が多い複雑な地形では、マス目の形が実際の地形と大きく変わってしまいます。山では、地形の凹凸によって雲ができたりできなかったり、湿った空気が入ってきたり来なかったりと条件が大きく変わるほか、山ごとの癖もあり、予測が難しいんです。
-- 小学校の社会科で、大陸から日本海側に吹く冬の風が山に当たって雪を降らせ、太平洋側には湿り気がない風が下りてくると習ったのを思い出します。それが実際の地形の上で、複雑に組み合わさっているのですね。
その通りです。ある登山隊にヒマラヤの天気予報を依頼されたとき、欧米の気象会社は3日間大雪と予報を出していたんですが、私は「7500メートルより上は晴れていて、風も弱い」と予想。登山隊が私の予報を信じて登山を決行してくれたところ、見事に晴れ、とても感謝されたんです。山岳気象予報士として認めていただけるようになったのはその頃からですね。
欧米の会社はコンピューターで計算していたのですが、私は学生時代から登山を長く経験しており、山の上の方と下の方で天気が違うと知っていたことが大きかったと思います。
-- 山を理解したうえで、複数の情報を組み上げて予報するのですね。
はい。でも、天気については、まだ人間にわかっていないことがたくさんあります。観測データの精度は上がっていますが、コンピューターが使っている計算式は人間が勝手に作り上げたものなので、式が間違っていれば結果にずれが生じます。2日先の天気予報ならあまり大きな影響はありませんが、週間予報は外れることが多いでしょう。まだまだ天気予報は完璧ではありません。
-- そうなんですか。観測データはどんなふうに取られているのですか。
その国の気象機関が雨量計や気温計を置いて取っていることが多いです。日本では自治体が観測していることもあり、これだけ国を挙げて密に行っている国はなかなかないですよ。台風や大雪、地震など気象災害が多いからでしょうね。今は直接観測機器を置かずに、衛星画像などで間接的に観測する技術も向上しています。
-- 「山の天気予報」というWebサイトや、スマートフォン用のアプリで予報を提供されているそうですね。
はい。Webやアプリは一般の登山者の方々によくご利用いただいています。他にもさまざまなお客様と直接契約して、天候面からアドバイスを行っています。
例えば、ツアー登山を催行している旅行会社様から、悪天候の際にツアーを中止するべきか、ルート変更は可能かなどの相談を受けたり、山岳交通機関や除雪業者の方に積雪予想を送ったり。人工雪を使うスキー場にも喜ばれています。気温が高くなったり雨が降ったりすると、すぐに人工雪が溶けてしまうので、人工雪を作るのにいいタイミングをお知らせしています。
一番難しいのは、テレビや映画の撮影隊に向けた予報ですね。タレントやスタッフの皆さんが安全に活動できるだけでなく、きれいな画を撮れるかどうかが大事です。特に映画は分刻みで撮影をするので、監督さんから電話で「今降っている雨、本当に30分後にやみますか」と聞かれることもありますよ。
-- 現地に行けない場合が多いと思いますが、求められる正確な予報を、どのように出しているのでしょうか。
現場から送ってもらう写真や動画がとても重要です。空気は目に見えないけれど、雲は空気のふるまいを教えてくれます。
海外で難しい山に登る場合は、頂上を目指す前に、高所に体を慣らしたり、ルートをスタッフが作ったりする期間がありますから、その間に毎日現地の予報を出して、次の日に実際の天候と予報とのズレを見て、ずれた理由を考えて、徐々に精度を上げていきます。いざ登り始めたら、夜中にも動きがあるので、24時間体制で対応することもあります。
-- 大変なお仕事です。同じ場所の過去の観測データなども、参考にされるのでしょうか。
過去のデータも確認しますが、なかなかその通りにはなりません。最近は温暖化などの影響による気候変動も激しく、気温も上がり、水蒸気の量も増えています。今まで崩れなかったパターンで崩れたり、今までにない天気図や気圧配置が現れたりすることもあるので、経験を当てにしすぎないことが重要です。
-- なるほど。山がお好きでしたら、予報しているとその山に行きたくなるのでしょうか。
なります(笑)。特にアフリカの山はすごく予報が難しいんですよ。観測データも少ないし、赤道の近くは一年中、天気があまり変わらないんです。キリマンジャロは特にテレビのロケが多く、天気予報を頼まれることが多いので、この地域の天気のことをよく知りたいと思い、2019年に行ってみました。
キリマンジャロは砂漠の非常に乾いた空気と熱帯雨林のすごく湿った空気がぶつかるところなんですよ。山の上に立って地形を見渡すと、そのぶつかり方が立体的に理解できました。雲の様子を見ると、遠くから水蒸気が入ってくるというようなことがわかるんです。
-- 現地に立たなければ、わからない肌感覚のようなものがあるのですね。
はい。空気のジトッとした感じや乾いた感じなど、直接肌で感じられて、すごく面白かったです。20年前の若い頃、世界一高いエベレストを世界一難しいルートから登りたいと挑戦したことがありますが、当時は実力が足りず、途中で断念しました。いつか世界中の人が憧れる山のてっぺんで景色を眺めて、雲の気持ちになってみたいですね。
もともと、天気は大好きだったんですが、気象予報士になってから、より空や雲を見るようになり、山登りも今までと違う意味を持つようになりました。雲や空や風を感じながら「なんでだろう」と考えるのがすごく好きなんです。「あの雲はなぜあそこにできているんだろう」「なぜあの形なんだろう」って。予報の時は雲や空気や風の気持ちになることもすごく大切なんです。
-- それはどんな感じなのでしょうか?
観測データや天気図、地形などを見ながら「自分が雲だったらどういうふうに動いていくかな」と考えるんです。この状況なら、雲はやる気を出してどんどん成長するだろうな、こんなふうに進んでここまで上昇するだろうなという感じでイメージしていきます。空気なら、温かい空気は水蒸気がたくさん含まれますが、冷たいとあまり含めません。だから、空気が上昇して冷えて胃袋が小さくなって、水蒸気でお腹いっぱいになって、たくさん雲ができちゃうなあという具合。法則通りにいかないのが、自然であり山ですから、現場の雲や風を観察し、少しでも雲や風の気持ちに近づこうと勉強しています。
-- 子ども時代はどんなふうに過ごされましたか。
地図や天気図を見るのが好きで、高校の時は気象オタクでした。子どもの頃は裏山の崖に登って遊ぶことが多く、大学では山岳部に入り、本格的に山に登り始めました。
最初はトレーニングがきつくて荷物も重くて、逃げ出したかったんですが、日々乗り越えていくことで自信がついたと思います。自分の限界に挑戦してみたいと、厳しい山にどんどん挑戦しました。落ちたらアウトというような場所をギリギリで乗り越えていくと、すごい充実感があります。下山すると生きている実感があって、食事をしても人と話してもすごく楽しいんですよ。
-- 危険なこともある登山ですが、大きな魅力があるのですね。
山に行くと、いろいろな悩みやストレスが飛んでいくし、そういう人たちが集まるから会話も弾みます。山登りをしている人たちは、すれ違うと必ず挨拶するんですよ。
食べ物や、ビール、コーヒーなども、山ではすごくおいしく感じます。非常にカロリーを消費するからかもしれません。他のスポーツではフルマラソンでも3、4時間ほどですが、登山は荷物を担いで一日歩き続けますからね。
-- いろいろな山を経験されている猪熊さんが気象予報士を目指されたのは、どのようなきっかけからでしょうか。
新聞に載るほどの登山中の大ケガが原因で慢性骨髄炎になったんです。しばらく山に登れなくなり、症状のコントロールが難しいため会社勤めもできないので、技術を磨いて自分にしかできない仕事をしようと考えました。
他の人に負けないものがあるとしたら天気だと考え、高校の時に諦めた気象予報士を再び目指すことに。その時に通った学校の先生が海専門の予報会社をやっていて、山の気象予報をしたいと相談させていただきました。
気象予報士になってから、ビジネススクールなどで講師を務めることも増えました。受講生の質問に答えるために数学や物理の原理原則を学び直したことが、気象予報にも役立っています。
-- 大きなケガや病気をされても、やはり山が好きでいらっしゃるのですね。
山を恨む気持ちは全くないですね。山に出会って良かった、自分を変えることができたという思いです。慢性骨髄炎を発症して5年後に、名医による手術を受けることができました。「杖なしで歩けるようになりたい、走れるようになりたい」との思いでリハビリを重ね、半年後に登山ガイドの友人の誘いで出かけた雪の上高地は、まるで妖精たちが住むおとぎの国のようでした。自力で歩いて見られた素晴らしい光景に、再生できた喜びを実感し、神々しいまでに美しい穂高連峰を前に、ただ立ち尽くすしかありませんでした。
-- 新たな山の魅力も感じられたのですね。OBとして、大学の山岳部のサポートも続けていらっしゃると伺いました。
はい。山岳部は特にOBとのつながりが強いです。自然は不確実な要素が多いので、登山には経験が必要です。わずか数年しか登山を経験していない大学生には、OBの手助けが不可欠だと思います。
私はこれまで、山で亡くなった若者の親御さんや婚約者の方などの悲痛な姿を数多く見てきました。誰も死んでほしくないですし、特に若い人が亡くなるのはとてもつらいことです。後輩が山で事故を起こせば、大勢のOBが仕事を休んででも集まります。同じ釜の飯を食った家族のような絆があるんですよ。
学生の頃は、厳しいOBをうるさく感じたこともありましたが、卒業してから、そのありがたみがわかってきました。親にも、相当心配をかけてきましたね。山岳部の監督になってから、親の気持ちがわかるようになったと思います。
-- 今後はどのような活動をしていかれるのでしょうか。
これからも気象予報を通して山の事故を減らしたいです。現在、登山ツアーの遭難はかなり減ったので、次は個人の遭難事故を減らすために活動したいと思っています。山岳気象の講習会のほか、山小屋でその場に居合わせた人に対して気象講座をしたこともありましたが、私一人で話をするのには限界があります。
そこで「空の百名山プロジェクト」を立ち上げました。空を見て楽しい山や景色の美しい山を選定し、雲や空の見方を伝えて、山の楽しさに加えていただきたいという思いで、新聞に連載記事を書いています。
また、登山者向けに全国各地の山頂で行う講座「山頂で観天望気」を私の会社で実施し、雲や空の楽しみ方、天気の予想の仕方などをお伝えしています。足を運んでくださった方やその場にいた方と、コミュニケーションを取るのがとても楽しく、この活動が広がっていけばいいなと思っています。
-- これから山に登ってみたいという方に、アドバイスをいただけますか。
麓から見える景色と、一歩山に登ったときの景色は全然違います。自分が動かないと景色は変わらないのは、人生も同じですね。少し進み始めると、ちょっと見えてくるものがあって、もう少し進むと、新しい可能性が見えてきます。登山も、実際にやってみて初めて良さがわかるので、ぜひ飛び込んでみてほしいですね。
夏は暑くてヒルなども多いので、初心者の方には、あまり距離が長くなくて高低差も少ないコースがおすすめです。ある程度高いところまで乗り物を使って登れる山で、きれいな景色や空気の良さ、涼しさを味わうのがいいですね。長野県の木曽駒ケ岳の千畳敷、霧ケ峰の車山、山梨寄りにある入笠山などは、最高の景色が見られますよ。
-- 自分の足で登ってみたくなったら、次は歩く距離が少し長い山にチャレンジすればいいのですね。山の天気についてはどんなことを知っておいたらいいでしょうか。
日本では、夏を除いて西から東に天気が移り変わることが多いので、西の空を見るのが基本です。UFOみたいな形のレンズ雲が出ると風が強くなって、天気が崩れることが多いので注意が必要です。山に笠雲がかかっているときも天気が悪くなります。笠雲がどんどん成長して二重三重になったら、危険ですので早めに下山するか、出発を取りやめてくださいね。
-- ありがとうございました。私も夏山にチャレンジしてみたくなりました。
と き:2022年12月21日
と こ ろ:西新橋・当社東京支社にて