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私の京都(5)荒神橋

三洋化成ニュース No.539

私の京都(5)荒神橋

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2023.07.12

永田 和宏

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丸太町橋から望む荒神橋。右手の山は比叡山。その手前に見える白い建屋が京都大学医生物学研究所

私たちの歌誌『塔』の仲間であった川俣水雪が亡くなったのは、2021年のことであった。大腸がんであったと聞いている。彼とは一度だけ、一緒に飲んだことがあった。歌集が一冊だけ残された。

 

喫茶店シアンクレール今はなく荒神橋に佇むばかり

川俣 水雪

 

この一首を冒頭に置く歌集『シアンクレール今はなく』(2019年発行)がそれである。

京都には、学生に人気のある喫茶店がいくつかあった。川俣の詠う「シアンクレール」は、荒神橋のたもとにあるジャズ喫茶だった。京都ではよく知られていたが、閉店してしまった。

『二十歳の原点』の高野悦子がよく通った店としても知られているが、フランス語の意味は「明るい田舎」なのだそうだ。開店当時のかいわいはまだ田舎の雰囲気だったというが、我々は「思案(に)暮れる」と覚えていた。ジャズというものに縁のなかった私は、数え切れないくらいその前を通りながら、一度も入ったことがない。

荒神橋は鴨川に架かる橋であり、出町柳の賀茂大橋と、丸太町橋の間にある。京都大学の近衛通から、立命館大学の広小路キャンパスをつなぐ橋でもあり、このことが1953年のいわゆる「荒神橋事件」の発端ともなった。立命館大学に戦没学生記念像「わだつみ像」が誘致されることになり、その歓迎大会に参加しようと、京大から学生100名余りがデモ隊列を組んで荒神橋を渡ろうとしたところ、京都市警が不法デモとしてこれを阻止し、荒神橋上でもみ合いになった。その際、当時木造だった橋の欄干が壊れ、十数名の学生が転落し、重軽症を負ったのである。

そんな歴史的な背景とは別に、荒神橋はいつ渡っても気持ちの良い橋だった。私のいた京都大学胸部疾患研究所は、後に再生医科学研究所(現・京都大学医生物学研究所)に改組されたが、私の研究室はずっと同じで、川端通と春日北通に面する京大キャンパスの南西角にあった。昼メシなどを食いに、よくこの橋を渡ったものである。

 

とりとめもなき感情の午後の襞荒神橋を絵日傘ゆけり

永田和宏『やぐるま』

 

荒神橋より北を見るとき鴨川の股のあたりを冬時雨過ぐ

永田和宏『饗庭』

 

午後の明るい日差しのなかを、絵日傘を差した和服の女性が歩いていたりすると、現実感の希薄な、どこかめまいがするような不思議な感覚を持ったこともあった。よく荒神橋から北の方角を眺めたが、出町柳で賀茂川と高野川が出会う、通称鴨川デルタの辺りを冬の時雨が通り過ぎるのが見えたりもした。四季折々の荒神橋を楽しんでいたように思う。

前衛短歌の旗手として活躍された岡井隆さんの提案で、私と岡井さん、それに私の妻の河野裕子を中心として、私たちの『塔』と岡井さんの『未来』の若手歌人たちを集めて「荒神橋歌会」を立ち上げたのは、1993年であった。会場を京大会館としたことから、近くの荒神橋を歌会の名としたのである。

後にこの歌会から、吉川宏志、大辻隆弘といった有力な若手歌人が出てくることになったが、毎月一度開かれる歌会では、無記名で歌を出し、投票をして批評をした。真剣勝負の場であり、岡井隆さんといえども酷評の対象になる。その緊張感が快く、私たちはもちろんのこと、私より20歳ほど年上の岡井さんが一番楽しんでおられただろうか。

 

おのずから顔近づけて言う声のただに明るく樫の樹は立つ

永田和宏『風位』

 

数年後、岡井さんが京都の大学の非常勤講師を終えて東京へ帰ることになった際、送別会とした最後の荒神橋歌会に出した私の歌である。岡井さんを送るということで、実はこの一首にはちょっとしたトリックが隠されている。各句の頭を抜き出してみれば「おかいたかし」となる。同じ趣向で岡井隆を折句にした歌を5首作ったのだが、岡井さんをねぎらうという思いであっただろうか。種明かしをしたら、岡井さんがとても喜んでおられたのを覚えている。歌ではこんな遊びもできるのである。

こんなことも含め、荒神橋は私の人生のうち30年ほどをその近くに過ごし、折に触れて橋からの景を眺めた思い出深い場所である。

 

 

 

永田 和宏〈ながた かずひろ〉

1947年滋賀県生まれ。歌人・細胞生物学者。京都大学理学部物理学科卒業。京大再生医科学研究所教授などを経て、2020年よりJT生命誌研究館館長。日本細胞生物学会元会長、京大名誉教授、京都産業大名誉教授。歌人として宮中歌会始詠進歌選者、朝日歌壇選者を務める。「塔」短歌会前主宰。読売文学賞、迢空賞など受賞多数。2009年、紫綬褒章受章。歌人・河野裕子と1972年に結婚し、2010年に亡くなるまで38年間連れ添った。著書に『知の体力』『置行堀』『歌に私は泣くだらう―妻・河野裕子 闘病の十年』など多数。

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