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三洋化成ニュース No.540
2023.09.14
京都を評して「山紫水明」と言うのは定番になっているが、〈山紫〉は比叡山、大文字山を代表とする東山連峰、そして〈水明〉は言うまでもなく鴨川以外ではない。京都に鴨川がなければ、どれほど味気ない町になっていただろう。
鞍馬や八瀬へ延びている叡山電車(通称、叡電)の始発駅は出町柳と呼ばれる。この出町柳は、賀茂川と高野川が出合って鴨川と名を変える場所でもある。
輪郭がまた痩せていた 水匂う出町柳に君が立ちいる
永田紅『日輪』2000年発行
出町柳はまた、待ち合わせの場所でもある。出会う前のわずかな時間に、対岸に立つ「君」を見ていたのだろうか。見られていることに気付かない恋人を遠く見つつ「輪郭がまた痩せていた」ことに、はっと気付く。はかなげに立つ君の痩せ方を、口に出せないままに心配している作者の心の揺らぎが感じられる一首である。何より「水匂う」という一句が、まるで枕詞のように響いているのが快い。
川二筋デルタを成して合ふところ「出町柳」と恋人は呼ぶ
栗木京子「二十歳の譜」
この歌には面白いエピソードがある。私と河野裕子が新聞に連載した「京都うた紀行」(加筆修正し2016年に書籍化)で、私はこの一首を取り上げ「どこで読んだ歌だったのだろう」と言い「誰の歌であったのかも、ついに思い出せない。しかし、歌はこんな覚え方をされるのが幸せなのだとも言えよう」と書いている。記憶はしているが、誰の歌かわからないままに引用したのであった。
ところが、その数年後、思いがけないところで作者を知ることになった。青磁社から2014年に発行されている『シリーズ牧水賞の歌人たちvol.9 栗木京子』の中でこの歌に出会ったのだ。この歌は栗木京子のデビュー作、角川短歌賞次席に入選した「二十歳の譜」という1975年に作られた一連の中の一首だったのだが、歌集にまとめる時にそこに収録しなかったのだと言う。「作者がわからないけれど」と私が新聞の連載で取り上げた自作を見つけ「なんと三十五年ぶりの自作との遭遇」であったと驚いていた。そして「ただ一度、総合誌に載っただけの歌をよく覚えていてくれたなあ、と思う。ありがたいことである」とも書いていたのである。
これは私には大いなる驚きであり、かつうれしい作者との再会であった。たかが歌一首であるが、人の記憶にこのように残っていく歌もあるのである。歌の運命ということを思う。
永田紅、栗木京子の二首にみられるように、出町柳、そして高野川と賀茂川の出合うところにできた通称「鴨川デルタ」は、京都大学、同志社大学、そしてかつての立命館大学という京都の三つの大学からちょうど等距離に位置することもあって、大学生にとっては格好の出会いの場でもあった。いつ来ても若者たちで溢れている。川には跳び石としての〈亀石〉が置かれ、その跳び石を若者たちが踏み渡っていく。京都で最も若さが息づく場であるのかもしれない。
いつ来ても若さの横溢する、生き生きとした生気の感じられる場であるが、自身の身体的、精神的状態によっては、そんな若さに圧倒される場面もあるだろう。
私の妻、歌人河野裕子は、2000年のある秋の日、京大病院で乳癌の診断を受けた。病院の前で私と別れた河野は一人で車を運転して家まで帰ったのであるが、ちょうど出町柳の信号でデルタに集う若者たちの若さを、涙ぐましい思いで眺めることになった。その時の自らの思いを次のように述べている。
十年まえの秋の晴れた日だった。乳癌という思いがけない病名を知らされたあの日の悲しみをわたしは生涯忘れることはあるまい。鴨川のきらめく流れを、あんなにも切なく美しく見たことは、あの時もそれ以後もない。
人には、生涯に一度しか見えない美しく悲しい景色というものがあるとすれば、あの秋の日の澄明な鴨川のきらめきが、わたしにとってはそうだった。この世は、なぜこんなにも美しくなつかしいのだろう。泣きながらわたしは生きようと思った。
河野裕子『京都うた紀行』
それは、鴨川デルタでまぶしくも水に戯れる若者たちを見ての思いでもあっただろう。それ以来、私は鴨川デルタで若者たちを見るたびに、その時の河野の悲しみを思い、一人で帰らせるのではなかったという後悔をかみしめるのである。
1947年滋賀県生まれ。歌人・細胞生物学者。京都大学理学部物理学科卒業。京大再生医科学研究所教授などを経て、2020年よりJT生命誌研究館館長。日本細胞生物学会元会長、京大名誉教授、京都産業大名誉教授。歌人として宮中歌会始詠進歌選者、朝日歌壇選者を務める。「塔」短歌会前主宰。読売文学賞、迢空賞など受賞多数。2009年、紫綬褒章受章。歌人・河野裕子と1972年に結婚し、2010年に亡くなるまで38年間連れ添った。著書に『知の体力』『置行堀』『歌に私は泣くだらう―妻・河野裕子 闘病の十年』など多数。