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本当に大切なものは当たり前にあるものなんじゃないか

三洋化成ニュース No.542

本当に大切なものは当たり前にあるものなんじゃないか

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2024.01.19

探検家・人類学者・医師
関野 吉晴〈せきの よしはる〉

Yoshiharu Sekino
1949年東京都出身。一橋大学法学部在学中に探検部を創設し、アマゾン川全域を探検する。一橋大学を卒業後、横浜市立大学医学部に入学。南米を中心に世界中を探検。1993~2002年、アフリカに誕生した人類がアメリカ大陸にまで拡散した約5万3千kmの行程「グレートジャーニー」を遡行する旅を行う。10年の歳月をかけて、2002年2月10日タンザニア・ラエトリにゴールした。「新グレートジャーニー 日本列島にやって来た人々」は2004年7月に出発し、「北方ルート」「南方ルート」を終え、「海のルート」は2011年6月13日に石垣島にゴールした。
写真=本間伸彦

 

2023年初夏号から、本誌の表紙・巻頭で「グレートジャーニーで出会った多様な人・家族・コミュニティー」の連載を開始された、探検家の関野吉晴さん。大学生時代にアマゾン川全域を探検し、南米に魅せられて以来、世界各地を旅し、医師として現地の人を助けながら、交流を通して親睦を深めています。

世界中の民族から学んだ、生活の知恵や、人生において大切なことを伺いました。

南米アマゾンにひかれ未知の世界に飛び込む

-- いつ頃から、探検に興味を持つようになられたのですか。

高校生の時に、周りの友達と違って夢や目標が持てず、「全く違う文化や自然の中に自分を放り込んだら、違った自分が見つけられるかも」と考えたのがきっかけです。入学した一橋大学で探検部を創設し、1年生ながら部長になりました。

-- 探検部とは、どんな活動をするのですか。

あまり人が行かないところに行ったり、人がしないことをやったりしたいという人の集まりです。今は地球上に未知の場所はほとんどなくなっていますが、見方が違えば同じ場所でも違ったものが見えるんですよ。

-- ワクワクしますね! 最初の探検ではどちらへ。

早稲田大学の探検部が世界最長のナイル川に行ったと聞いたので、それに対抗して、世界一流域面積の大きいアマゾン川へ行くことに。旅費をためるためにアルバイトもがんばりました。

大学のゼミの教授が「法学部に入ったからといって法律をやることはないんだよ。単位を取るための勉強は必要だけれど、いろいろな本を読み、いろいろな人に出会い、いろいろな場所に行って、物の見方や考え方を一つ持って社会に出ていきなさい。その見方は後から変わってもいいよ」と言ってくれたんです。そこで僕は、南米の未開社会の慣習や法律について、文化人類学的に調査をして発表しました。もう一人のゼミ生はインドのことを勉強していました。自分は何をしたいのか考え、自分で問いを立てる、これが本来の学びの姿だと思います。この先生には今でも、探検に行った先のことを報告していますよ。

-- 60年近くも探検レポートを提出し続けているのですね。探検と聞いた時の、ご両親の反応はいかがでしたか。

両親は、危険だからとずいぶん反対しましたし、今でも反対なんですよ。僕は一つのことに夢中になると他のものが見えなくなってしまう性格なのかもしれません。大きな影響を受けた、ジャン・ジャック・ルソーの『告白』に「私はあるものにとらわれると、他のことがどうでもよくなる。地球がひっくり返ろうが、それ一つに邁進してしまう」という一節があるんですが、読んだ時に「僕のことだ!」と思いましたね。

-- 夢中になれることも才能の一つですね。アマゾンには一人で行かれたのですか。

川下りをしないといけないので、一橋大学のボート部の友人と法政大学の友人を引っ張り込んで三人で。当時はまだ海外渡航が自由化されていなかったので、学術探検隊として渡航許可を申請したんです。バイトで必死にためた最低限のお金を持ち、ビザの関係で仕事はできないので宿泊はテントか居候。泊まらせてもらった家では大工仕事や皿洗いなどを手伝いました。当時は日本にアマゾンの情報がほとんどなく、あっても実際行ってみると違うことが多かったです。船で行ける川の周辺は見知った風景でがっかりしたのですが、荷物を担いで歩いて踏み入らないと行けないような場所には、本当の未知が残っていて、奥地に入っていくにつれて面白くなって、滞在した1年間で南米に魅せられましたね。

帰国してから、英語やスペイン語のアマゾンの資料を読むと、僕らが行った地域の近くに、地図で空白の場所があったり、スペインに滅ぼされたインカの末裔が住む地域があったり。「これはまた行くしかない!」と熱くなりました。

-- それは楽しみですが、また旅費をためないといけません。

はい。その頃、新聞記事で見つけたアドベンチャープラン募集の企画に応募して、新聞社から補助金をもらえることに。アマゾンで7カ月過ごした後、条件だった新聞での連載を始めたんです。

-- ご自身の探検を記事にされたんですね。卒業後の進路はどうお考えだったのですか。

探検家になりたかったんですが、日本では探検家では食べていけませんでした。また、アマゾンで出会った人たちを、取材や調査の対象とするのではなく、彼らと友達でいたいという思いがありました。そこで医者になれば彼らの役に立てると考え、医学部に入り、6年間の長期休暇はほとんど南米に行っていました。すると少しずつ名前が知られて、写真や雑文が売れ、テレビの取材にも同行するようになりました。

-- 日本におけるアマゾンの第一人者になったのですね。

 

人類拡散の旅「グレートジャーニー」を逆ルートでたどる

-- なぜグレートジャーニーに注目したのでしょうか。

南米の先住民たちの顔立ちはアジア系に近く、彼らも私を現地人と間違えるほど。一方で、アジアから遠く離れた場所になぜ私と似た顔立ちの人たちがいるのかと疑問に思い、人類の起源を探そうと思い立ったんです。アフリカで誕生した人類が世界に拡散していった道のり、グレートジャーニーを逆にたどってみようと。太古の人たちは何を考えていたのだろうと思いを馳せて、移動は人力で。陸は徒歩や自転車で、海はカヌーかカヤックで。高校の時に柔道部やラグビー部で培った体力が生かされました。

-- 現地の人とのコミュニケーションはどのように。

新大陸は大抵スペイン語か英語が通じますし、先住民と会う時はあらかじめ彼らの言葉を勉強してから行きました。言葉によるコミュニケーションだけでなく、彼らと同じ目線に立って接することも大切です。南米の先住民のマチゲンガは普段、他の地域の人間と接することがないので、僕たちが行った時は警戒し、逃げていきました。言葉がわかる人に説得してもらいましたが、2度目もまた逃げられました。

-- 先住民でなくても、見知らぬ人に対しては警戒しますものね。

撮影用の照明など彼らが怖がるような道具を使ったり、彼らを動物のように扱ったりすることは絶対してはいけないと考えていました。ここは彼らの土地だから、ここでは彼らが上だと敬意を示すように心がけ、徐々に認めてもらえるようになりました。1カ月ほどかかって彼らと仲良くなり、彼らの名前や年齢、慣習を聞くなど、たくさん会話をしました。

ビザの関係で帰国する時、「次はいつ来るんだ」と聞かれたのですが、彼らには数の表現が3までしかない。1カ月をどう伝えようかと考えて「次の満月の時に来るよ」と答えたんです。実際1カ月後に行ってみると、彼らは少し移動していたんですが、僕を待っていてくれて再会できました。彼らとはもう50年の付き合いです。出会った時に1歳だった赤ちゃんが、50歳になっていますよ。

-- 長年のお友達なのですね。医療の知識や技術は旅のなかで役に立ちましたか。

体の不調を治すと、とても感謝されます。現地にも薬草などを使った伝統医療はあるので、僕が西洋医学を持ち込むことで現地の医療や文化を壊さないように、現地の医学と西洋医学を臨機応変に使い分けて対応していました。ベネズエラのヤノマミという先住民族では、シャーマンが除霊することで病気を治す力を持つとされていて、彼の邪魔をしないように気を付けていたんですが、僕が医者だと話すと最初に彼が「頭が痛い」と言ってきました(笑)。人工的に霊視するために、幻覚剤を吸い過ぎていたんですよ。

また、ある時はエチオピアの先住民の検便をしたんですが、全然便を持ってきてくれないんです。数日してやっと若者が一人、厳重に葉っぱでまいて持ってきてくれました。「恥ずかしいから嫌なのかな」と思って聞いてみると、面白いことがわかりました。彼らにとって医師はマジシャンの一種であり、排泄したばかりの便はまだ体の一部だから、マジシャンに渡すと呪いをかけられてしまうかもしれないというんです。これは研究者も知らなかった、彼ら独特の身体感覚でした。この時、医者になってよかったと感じましたね。

-- 医師だからこそできた発見なのですね。そのような場所で長く過ごすと、日本に帰ってきた時に違和感があるのでは。

帰ってきた直後は時間のサイクルが合わないですね。先住民の移動のスピードはせいぜい時速2〜3キロメートルですが、日本の街なら車や電車で、10倍の時速30キロメートルです。

-- 最近よく聞くようになったタイム・パフォーマンスやコスト・パフォーマンス、時短などという言葉とは対極の暮らしですね。

中国・青海省での診療(2007年)

 

自然と暮らす人々に学ぶサステナブルな暮らし

熱帯で生まれた人類が、極北シベリアや北極圏まで行けるようになったのは、人類の長い歴史で、針の発明以降のことなんです。シルクロードまでは毛皮を羽織っていればいいのですが、それより北では凍死してしまいます。針と糸で服を縫い、自分の熱で保温できればマイナス40度でも大丈夫。針の発明がなければ、まだ人類はベーリング海峡を渡れず、新大陸に到達していなかったかもしれません。

-- なるほど。針のおかげで、極北まで移住できたのですね。南米でアジア人に似た人がいるのはわかるのですが、アフリカから極北へ向かう途中のヨーロッパの人たちが白人といわれるのはなぜですか。

肌の色には気候が大きく関係しています。人間は皮膚で紫外線を吸収して体内でビタミンDを作るんですが、北は紫外線が弱くて黒い肌では紫外線を十分に吸収できないため、白い肌になって生き残りました。片や、アフリカにすむ人の肌が黒いのは、強過ぎる紫外線によって、子孫を残すために必要な葉酸を破壊されないようにするため。このようなことを知ると、肌の色で優れているとか劣っているとか決めるのが、いかに愚かなことかがわかります。また、「ベルクマンの法則」というものがあり、動物は寒い地域に行くほど大型になり、寒さを克服しているんです。人類も同じで、北に行くほど背が高いです。ただ、北極圏の先住民のエスキモーは、住み始めてまだ数千年ですから、肌も白くないし体も大きくない。

-- 肌の色の変化は住んでいる場所の気候に対応しただけなんですね。関野さんはいろいろな地域を回られましたが、やはり南米には特別な思いがあるのですか。

はい、最後に一カ所だけ行くとしたらやはりアマゾンです。友達もたくさんいますし、彼らからは学ぶことも多く、僕の師匠だと思っています。彼らほど、サステナブルな人はいません。素材がわかる生活ゴミ、排泄物や死体は、最後は土になります。自然の循環の輪の中にいるんです。一方、僕らの生活はどうでしょうか。

-- 街に住む私たちが持続可能な世界を目指すには。

都市でもサステナブルな生活に近付くことはできると思います。イロコイというアメリカ東部の先住民は、大事なことを決めるときに「7代先の人たちにとってどういう意味があるか」と考えるそうです。この考え方はアメリカ合衆国憲法にも影響を与えたといわれています。7代先というと、200年先ですが、現代で200年先は全く別の世界でしょうから、私たちは例えば50年先の孫の世代にどんな地球を残したいか、考えて行動してはどうでしょうか。

-- 想像がつくところまででいいから、考えてみようということですね。

その通りです。「もっともっと」という肥大した欲望が、さらにサステナブルの問題を解決しにくくしています。「もっともっと」ではなく「ほどほどに」。「足るを知る」ことが大事です。

マチゲンガの皆さんとともに(1982年)

 

過酷な環境を生き延びるには

-- いろいろな旅を通じて、感じられたことは何ですか。

一番大切なものは何だろうかということです。戦後、ポーランド人というだけでスパイ容疑をかけられ、シベリアの強制収容所に送られたおじいさんから、実は一番影響を受けたんですよ。粗末な家と食事で、マイナス60度の場所で強制労働させられたにもかかわらず、とても気さくで、80歳まで生きてこられた自分を「ラッキーだ」と言うんです。シベリア送りの間に奥さんと幼い子どもが病死し帰れる家も失って、ロシア人女性と再婚して年金で暮らしているんですが、普通はラッキーって言わないでしょう。初め「この人は理解できない」と思い、ずっと考えていたんです。

この人は、家族と好きな場所に住む、好きなことが言える、仕事を選べるなど、そういう当たり前のことを収容所で徹底的に封じられた。解放された時に雲の形も空の色も違って見えたということは、とてつもない解放感があったわけです。当たり前の大切さを味わってかみしめて生きているから、ラッキーだしハッピーなんだと後で理解できたんです。病気になって初めて健康のありがたさを感じる。空気や大地、水は汚れていないのが当たり前で、たぶん天から与えられたもの。それらは守らなきゃいけないんだと感じましたね。

-- 当たり前の大切さを失って初めて気付くのではなく、日々感謝できれば、とても幸せだということですね。さまざまな民族との出会いのなかで、若い人たちに伝えたいことは何でしょうか。

目標を持って生きるのは良いことですが、それに縛られすぎず自由に生きてほしいですね。人の適性というのは必ずしもすぐにわかるものではありません。

僕は全共闘世代で、偏差値教育のなかで目標や夢に向かって生きてきました。でも、マチゲンガは全く競争をせず、日々たっぷりと時間があるなかで暮らしています。またアマゾンの人たちは、遠い未来を考えないから、不安がない。過去も考えないから後悔しない。木から落ちて骨折しても「木に登らなければよかった」と後悔するのではなく、骨折した今の自分を受け入れて生きていくんです。

では、彼らには将来の安全保障はないのかというと、そうではありません。家族や周囲の人との強いつながりをつくり、困った時は助け合う、そういうコミュニティをつくることでみんなが生き延びられるということを長い歴史を通して知っているんです。僕はエチオピアの先住民を診療した時、親しくなった男性からヒョウタンになみなみと入れた蜂蜜をもらいました。蜂蜜は現地ではとても貴重で森の精霊の贈り物といわれ、それを贈ることは何かあった時に助け合う兄弟の契りという意味があるそうです。逆に、今の日本はお互いに助け合うコミュニティが希薄なので、老後のためにみんな一生懸命貯金していますね。

-- アラスカやヒマラヤなどの過酷な環境で人々が生き延びているのは、お互いに助け合ってきたからなのですね。人類の培ってきた大切な知恵を教えていただき、本日はありがとうございました。

ポーランド人のおじいさん。手にしているのは亡くなった奥さんの肖像(1999年)

 

と   き:2023年8月28日

と こ ろ:西新橋・当社東京支社にて

 

 

 

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