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石垣は人間社会と同じ 多様な石に無駄なものは一つもない

三洋化成ニュース No.546

石垣は人間社会と同じ 多様な石に無駄なものは一つもない

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2025.01.15

石工、十五代目穴太衆頭
粟田 純德〈あわた すみのり〉
Suminori Awata
1968年、滋賀県生まれ。滋賀県大津市坂本に拠点を置く「穴太衆あのうしゅう」の石工技術を受け継ぐ15代目、株式会社粟田建設代表取締役。地元の中学校を卒業後、祖父である粟田万喜三氏に師事し、自然石を加工せずに積み上げる伝統技法「野面積のづらづみ」を受け継ぎ、新たな応用も模索し続けている。
写真=本間伸彦

比叡山延暦寺の門前町である坂本に暮らしていた石工職人集団・穴太衆あのうしゅうの「野面積のづらづみ」は、形や大きさの異なる自然の石を加工せず積み上げることで、容易には崩れない構造を実現する日本独自の技術です。戦国時代に敵の攻撃から多くの命を守った堅牢な要塞は、独特な美しさで現代の人々の心をとらえています。

長い歴史を誇るこの技術を次世代へとつなぐため国内外での活用を模索し、未来への活路を見いだそうとする粟田純德さんにお話を伺いました。

歴史の要請に応えて発展した石積みの技術

-- 「穴太」と書いて「あのう」と読むのですね。これは地名でしょうか。

はい、地名として今も残っていますよ。滋賀県の比叡山山麓の坂本の地は、もともと朝鮮半島から渡ってきた人々が多く暮らしており、彼らが持ち込んだ技術が日本の石工の基盤となりました。そこで、石積みの技術を持つ職人たちが「穴太衆」と呼ばれるようになったんです。

古代の穴太衆は主に古墳や墓、棚田や段々畑の土留めの石垣など、日本の日々の生活に欠かせないものをつくっていました。そして戦国時代には、比叡山延暦寺などの寺院の石垣のほか、城を敵から防衛する石垣も手がけるようになっていきました。

-- 時代の変化に合わせて技術を生かし、新たなものをつくるようになったのですね。

あちこちで野面積の石垣が見られる坂本

そうですね。1571年、織田信長による比叡山の焼き討ちの際に、延暦寺周辺に積まれていた高くて堅固な石垣が高く評価されました。それがきっかけとなり、後に信長の築城事業で、安土城の石垣を積むために、穴太衆が召し抱えられたといわれています。穴太衆は奉行職を務めていました。今でいう総合的な建築会社のようなものでしょうか。その頃から免許制で、坂本の地で修業をした者でないと穴太衆と名乗れないという仕組みがあり、確かな技術力を保ってきました。

--  石垣づくりの技術というのは。

石垣の積み方には大きく三つの種類があります。私たち穴太衆の「野面積」が一番古く、加工していない自然の石を積んでいく方法です。戦国時代に発展した技法で、当時は合戦が迫れば素早く城を築く必要があり、石を加工している時間がなかったため、自然の石を使った積み方が好まれました。

そして時代が進むにつれ、石を加工する技術が生まれました。「打ち込みぎ」は石を荒削りにして積む手法で、見た目も整った印象になります。「切り込み接ぎ」は、石をきれいに四角く加工して積み上げる方法で、江戸城など江戸時代の城でよく採用されました。天下泰平の時代には、戦国時代のような迅速な築城が求められなかったことに加え、石の加工技術が発達し、石垣が城主の威厳や豪勢さを見せるものとして整った美しさを求められるようになったのだと思います。建築にあたっては全国の大名に石を運ばせたので、四角く加工した石のほうが運搬もしやすいし、積む時も誰でも積めますから、扱いやすかったのでしょう。

 

石を組み合わせ、遊びを持たせて地震にも耐える石垣に

-- 素人考えでは、石と石の間をコンクリートのようなもので固めたほうが、石垣が崩れないように思うのですが、石を積み上げるだけの野面積がどうしてそんなに強固なのでしょうか。

実は、コンクリートで固めると逆に弱くなってしまうんです。ごつごつした自然の石をそのまま積んで、石と石の間に隙間があったほうが、石の間に「遊び」が生まれ、地震の時に揺れを吸収するので、耐震性が高くなるんですよ。現代の高層ビルも、揺れることで揺れを吸収するように設計されています。また、豪雨に備えて排水を良くする工夫も備わっているんですよ。災害の多い日本で培われてきた知恵ですね。

とはいえ、隙間がありすぎると良くないので、石垣の表面に並ぶ石を積む前に、「栗石ぐりいし」というこぶし大の小石を、石垣の奥の荷重がかかる位置に積み、器具を使ってしっかりと押し固める工程があります。石垣は、土台部分は土で、その周りに2〜3メートルほどの厚みの栗石の層があり、表面には大きな石が野面積で積み重ねられているという構造です。見えている部分より、見えていない奥の部分が1.5倍ほど長いんですよ。短い石ばかりを重ねて積むとその部分が弱くなるので、長い石や短い石を一つひとつ組み合わせて積んでいきます。非常に手間のかかる工程ですが、この栗石の層が石垣の安定性を保つのに重要な役割を果たしています。野面積だけでなく、栗石をきっちり押し固める工程もとても大事なんですよ。

-- 見えない箇所に手間をかけている、まさに職人技ですね。その技法は、長年どのように伝えられてきたのでしょうか。

穴太衆は技術を口伝します。自然の石を使う以上、同じ形の石は二つとしてありませんから、図面を描いて、それに合う石を準備することはできません。現場で石を見ながら即座に判断していくため、マニュアルがつくれないんです。若い職人は、親方が石を見てどう考え、どう積んでいるのかを見て学ぶんです。

-- マニュアルはないんですね。2016年の熊本地震で熊本城の石垣が崩れ、現在復旧工事が進められています。石垣を修復する時はどのようにされるのでしょうか。

文化財の修復の際は、できるだけ本来の姿に近づけるのが大事ですから、もともと入っていた石と同じ石を探すんです。熊本城でも、崩れる前の城の写真を見て、同じ石を探しているそうです。途方もない時間がかかる作業です。ちなみに、熊本城の石垣で今回崩れた部分は、明治期に修復された部分です。400年以上前に加藤清正が命じて、穴太衆が積み上げた部分はほとんど崩れていなかったんですよ。

-- それが穴太衆の技術力ということですね。さまざまな色や形の自然の石を組み合わせてつくった石垣を見ると、デザイン的に美しいのももちろんですが、気持ちが穏やかになるような気がします。

加工されていない自然の石ならではの温かみがありますよね。石は日本各地にあり、日本人が生まれてからずっと身近に接してきたものです。石は神様として祭られることも多く、日本人は古くから石に対して畏敬いけいの念を持っていました。石には、何かパワーのようなものが宿っているのかもしれませんね。

 

石の声を聴いて、石の行きたいところに行かせる

-- 加工していない石を積む時は、どんなことを考えているんですか。

私たち穴太衆は、よく「石の声を聴いて、石の行きたいところに行かせてやれ」と言います。野面積の石垣は、長短や大小が異なり形もバラバラな石が組み合わされてできています。整った形の石がほかの石とかみ合わなかったり、いびつな石が要の役割を果たすことがあったり。石をよく観察して、その形や性質に合った最も力を発揮する場所に配置するということです。私は、まず採石場に足を運び、たくさんの石を見ながら、その場で設計図を頭の中に描いていきます。使う石を一つひとつ選び、積み上げるイメージをつくっていくと、完成形の8割ほどは決まってしまいますね。石選びはとても重要な作業です。

私は迫力のある大きな石が好きで、採石場で「ぜひ使いたい」と思う素晴らしい石に出会うこともありますが、そういう石に限ってうまくはまらないことが多いんですよ(笑)。

-- 難しいんですね。粟田さんにとって、石垣の魅力はどんなところにあるのでしょうか。
石は二つとして同じものがないので、石垣もそこでしか見られないものです。石を選び、石垣を組み立てていると、人間社会とよく似ていると感じます。大小さまざまな石、丸い石やとがった石、美しい石やそうでない石、それぞれが役割を果たして一つの石垣ができています。大きな石の横に小さな石を置くと、大きな石がさらに引き立ちますし、滑らかな石の隣にごつごつした石を配置するとメリハリが生まれます。一つひとつ異なる全ての石それぞれに役割があって、無駄なものは一つもありません。きれいな石ばっかり積んでも、何にも面白くないんですよ。

師匠である祖父もよく言っていました。「体の大きい人がなんぼ威張っていても、比較対象がないと大きいか小さいかわからへん。小さい人は小さい人なりにちゃんとした役割がある。人間社会と一緒で、無駄な人は一人もいいひん」と。そんなことを、石垣を通じてたくさんの人に感じてもらえたらいいですね。

-- 石の組み方は、積む人によって変わるものなんですか。
石垣には積んだ人の性格が出ますね。私の祖父は繊細な積み方、父は荒々しい積み方で、私はその両方の良さを受け継いでいるつもりです。坂本には石垣に対して目の肥えた方がいて、僕の祖父が積んだ石垣だなどとわかるそうですよ。

-- 粟田さんは、お祖父様に弟子入りして野面積を学ばれたんですね。

はい、中学を卒業した15歳の時です。今の時代では考えにくいことですね。長い修業が必要な仕事ですから、祖父は早くから僕に教えたかったようです。子どもの頃から自然と、将来は職人になるものと思っていましたね。小学校の頃から、長期休みには出張の仕事に同行し、職人さんたちにもかわいがってもらい、祖父におもちゃを買ってもらえるのも楽しみでした。

-- 穴太衆として一人前になるには、どれくらいの期間がかかるのでしょうか。
石を積めるようになるまでは10年かかるといわれています。最初は裏方で、石垣の裏側に栗石を詰める作業ばかりでした。栗石の詰め方も技術が必要で、石積みの基礎として大切な修業なのですが、なかなかしんどくて、「もうやめたい」と思うこともありました。師匠である祖父は明治生まれの職人気質な性格で、仕事中は大きな声で叱られたことを覚えています。でも、家に帰ると優しいいつもの祖父で、明日もがんばろうと思ったものです。

-- そして、そのお祖父様も、石の声を聴きながら石を積んでいらしたんですね。
祖父は現場で、石をどんどんきれいに積んでいっていました。その姿を見ていると、本当に石の声が聴こえているんじゃないかと思ったものでした。石の声が聴こえるというのは、どれだけ石をよく観察しているかということだと思います。祖父は朝も人より早く現場に行って、昼も食事を済ませるとすぐに石の周りをぐるぐる回って、観察していました。一つひとつの石がどんな形なのか、全部把握していたんでしょうね。すごいなと思いました。

 

穴太衆の技術を残す道を模索する

-- 石の建造物は、海外にも多くありますが、日本の石垣のつくり方とは違うのでしょうか。
はい、大きな違いがあります。野面積は日本独自に発展したもので、他の国には存在せず、朝鮮半島にも今はほとんど残っていません。古代ローマのコロッセオやエジプトのピラミッドなどの歴史的建造物では、四角く加工した石を積み上げています。ローマ時代にはすでにセメントがありましたから、積んだ石をセメントで固定する建築技術が発展していったんです。中国の万里の長城にも、加工した石が使われています。

日本は合戦のために緊急で石垣をつくるニーズや地震に耐えるニーズがありました。昔の石工が積んだものが合戦や地震で崩れて、考えて直して、また崩れて直して、そうやって蓄積してきた技術なんだと思います。また、野面積という技術があったからこそ、自然の石をわざわざ加工するという意識は日本人の感覚にはなかったのではないでしょうか。

-- なるほど。お城は文化財でもあり、地域の人はもちろん、世界の人にとっても大切な、大きな存在です。この地震の多い国で貴重な文化財を末永く残していくためにも、野面積の技術は後世にまで伝わってほしいです。今、穴太衆はどれくらいいらっしゃるのでしょうか。
うちの会社の4名だけです。穴太衆は技術に関する書き物を残していないので、野面積は一度失われたら、復活させることはできません。この技術を未来に残すためには、人に伝えていくことが重要です。粟田建設の社長になってから、400年続いてきた技術を継承していくことの責任を感じるようになりました。

今は、一般の住宅やお寺・神社からの依頼は受けていますが、石垣自体も少なくなり、新たな野面積や修復の仕事は減っていますね。他に請け負っている土木工事や造園などを、野面積と組み合わせていくことも考えています。また、研修などもしていますが、国内だけでは難しいので、ワークショップや海外の日本庭園づくりなどを通じて海外に野面積の技術を披露する機会を増やして日本でも再び注目してもらおうと、さまざまな活動をしています。

-- 海外での反応は。
アメリカはコンクリートを使う文化ですから、コンクリートで固めることなく自然石をそのまま積むという技術は大変驚かれ、「日本らしさを感じる」という声をいただきました。現地の職人さんと一緒に仕事をしましたが、言葉が通じないので、身振り手振りでコミュニケーションを取りながら野面積を教えたんですよ。後日、野面積の作品の写真を撮って送ってきてくれた時はうれしかったですね。

粟田建設にて

-- 自然の石を使う野面積は海外の景色にも調和しそうですね。

そうなんです。野面積の石垣は、昔ながらの日本の家屋や庭園だけでなく、洋風の建物にも合うんですよ。2017年には建築家の隈研吾さんと一緒に、アメリカ・テキサス州ダラスにあるスイスの時計メーカー、ロレックスのカスタマーセンター「ダラス・ロレックスタワー」の建設に携わりました。ガラスのタワーを守る石垣を、アメリカの花崗岩を用いて野面積で築いたところ、「洋風の建築物にもマッチする」と好評でした。日本では洋風の家が増えていますが、洋風の家に石垣が合わないということは決してありません。日本でも、もっといろいろな建築物と石垣の組み合わせの可能性が広がるといいなと思います。

最近、お城ブームや戦国時代を題材にしたゲーム、テレビ番組や雑誌などで穴太衆が取り上げられて、若い人たちに少しずつ穴太衆という名前を知ってもらえるようになってきました。これからも品質と技術を守りつつ、野面積を広めて後世に受け継いでいきたいと思っています。

--  自然のままの石を組み合わせて、高い強度を何百年も保ち、無骨な荒々しさと静けさを兼ね備えた美しさを持つ石垣をつくる野面積がぜひ未来に残ってほしいです。本日はありがとうございました。

 

と   き:2024年9月21日
と こ ろ:大津市坂本・株式会社粟田建設(リモートインタビュー)

 

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